アインシュタインと戦争1
今から100年前の「1922年」といえば、何を連想するでしょうか?
物理ファンなら、アインシュタインがノーベル賞を受賞した年、と答えるかもしれません。しかもそれは日本へ講演旅行に向かう船上で発表され、着岸した神戸港では、多くの日本人が世界で初の盛大なお祝いを送ったことでも知られています。
実は、下記の記事を見つけてふとそのエピソードを思い出しました。
当時はすでにアインシュタインは世界のスーパースターになっていました。
が、実はその数年前にやっと一般の人に知られたのは知られてません。
アインシュタインと聞くと「相対性理論」を連想すると思います。
その発表年は、以下の通りです。
特殊相対性理論:1905年(この年にノーベル賞受賞となった光電子効果の論文も発表して「奇跡の年」と呼ばれます)
一般相対性理論:1915年(厳密には数学的な定式を完成させて発表したのは1916年)
どうしても華麗な経歴だけ輝いて見えますが、今回はあえて一般相対性理論が認められるまでのストーリーを、当時の社会情勢を中心にお伝えしたいと思います。
一般相対性理論の発表当時は、1914年に欧州で勃発した「第一次世界対戦」真っ只中でした。
当時のドイツでは愛国主義の空気が支配しており、多くの科学者たちが戦争に貢献する研究を行っていました。
アインシュタインが懇意にしていたフリッツ・ハーバー氏もその一人です。彼はもともと肥料に必須のアンモニア生成法に貢献してノーベル賞まで受賞していましたが(100年たった今でもハーバー・ボッシュ法として使われています)、この戦争では化学兵器の開発に関わったことで知られています。
残念ながら、当時は愛国風土で戦争支持派が主流でしたが、平和主義・国際主義のアインシュタインは、当時の風潮に背を向けて特殊相対性理論の拡張に没頭していました。
ただ、戦争は国家を超えた科学者間の交流でも断絶を生みました。
元々特殊相対性理論は、永世中立国を掲げたスイスで特許庁勤務中に仕上げ、スイスのパスポートまで取得しています。
それでも国家間の交流は難しく、特に敵対国であったイギリスではドイツ科学者への非難が沸き起こりました。
当時すでに特殊相対性理論を発表していたものの、ドイツ国内または専門分野でなければそこまでアインシュタインのことは知られていませんでした。
しかも特殊相対性理論はあくまで「等速直線運動」という限られた世界で通用し検証するアイデアすら見つかっていない状態でした。
アインシュタイン自身によると、この1913年ごろは一般相対性理論の基礎を固めるために人生で最も集中した時期でした。
ただ、彼は完全な孤立主義でなく多様な議論や仲間づくりを好み、例えばオランダの物理学者ヘンドリック・ローレンツ氏が提唱した理論と彼との交流には特に刺激を受けていました。
実は一般相対性理論のアイデア(「等価原理」と呼ばれます)は以前よりあったのですが、物理的な意味合いを表現する数学については試行錯誤の連続で、特に1913年ごろに大きく方針転回をしています。
そして「相対性理論の検証」については、光の湾曲など天体現象でしか難しいだろうと考えて、それを実行してくれる天文学者を探していました。
その一人は、皮肉にも第一次世界大戦で戦地に赴いて戦死したドイツの科学者シュバルツシルト氏です。
これにていては過去の投稿でも少し触れたので引用しておきます。
そんな人生で最も集中した時期でも、愛国主義を称える文化団体(ベルリン・ゲーテ連盟)から、戦争に対する科学者のエッセーへの求めに従って、わざわざ寄稿をしています。
しかもその内容は、反戦だけでなく愛国主義をも否定するもので、編集側もさすがに部分的に削除して公開せざるをえないという顛末もありました。
そんな戦争ムード一色のドイツ社会との葛藤も抱えつつ、一般相対性理論を一気に完成に近づけるライバルが現れます。
ドイツの数学者「ダフィット・ヒルベルト」氏です。
ヒルベルト氏は数学が専門で、物理現象が持つ意味というよりは、公理を基にした論理に比重を置いていました。
彼は論理から科学理論全体を導こうと考え、その研究材料の1つとしてアインシュタインが唱え始めていた一般相対性理論を選びました。
一方でアインシュタインは、その論理(数学)が物理的にどういった意味を持つのか?に、それまではこだわっていました。
先ほど触れたアインシュタインの方針転回も、ざっくりいうと物理から数学へのシフトとも言えます。
アインシュタインはヒルベルトの一般相対性理論への理解含めた高い能力に感服していました。
そしてもう1つ、ヒルベルト氏も反戦を公言しており、政治的信条としても共感を感じていました。
数学による定式化が論点となった一般相対性理論の完成については、数学が専門のヒルベルトに追い越されないかとアインシュタインは相当心配していたといわれています。
研究内容の講演による証拠づくりだけでなく、お互いに手紙でも交流して、自身の先取権主張を繰り広げていました。
最後はデッドヒートが繰り広げられ、本当にギリギリのところでアインシュタインが方程式を完成させて軍配があがりました。
ヒルベルトも最終的には認めましたが、個人的には、もともとはアインシュタインの発想なので、至極もっともな結果だと感じます。
その理論の正しさを主張する手段としてアインシュタインは、「水星の近日点移動」といわれる、ニュートン力学では説明出来なかった現象を定量的に説明することができました。
ところが。ドイツでは盛り上がったこの科学戦争は、他国ではあまり知られることはありませんでした。
特に一次大戦で敵国の英国では、アインシュタインの名前も轟くことはなく、むしろ戦死したシュバルツシルトのほうが天文学者間では知られていました。
彼の戦死を受けてその業績を高く評価したのがアーサー・エディントンという英国の天文学者でした。
相対性理論への貢献だけでなく、恒星がなぜ輝くのかを初めて解明した人としても知られています。
当時の英国はドイツ敵対心が強く、ドイツの科学自体をも否定する風潮が科学者内にもありました。それに猛反対したのがエディントンで、代表的な言葉を引用しておきます。
エディントンは一般相対性理論を懇意の科学者経由で知り、その素晴らしさに感銘を受けました。
ただ、論文内での水星近日点移動では検証として不十分(もう観測結果は既知であったのでそれに理論を寄せた可能性もある)と感じ、実証するには皆既日食時にのみ観測可能な「光の湾曲現象」しかないと考えました。
そしてそれが1919年の5月に訪れることがわかっていました。
エディントンの孤独な戦いが始まります。そのままドイツの科学者アインシュタインの論文を紹介するだけでは、反発は目に見えています。
何よりも、それが否定しようとしているのは英国が誇るニュートンです。
そこで彼は、相対性理論を自分の言葉で砕いて解きほぐして、わかりやすく伝えるという手段を取りました。
非専門の観衆向けには、相対性理論が導く新しい宇宙を中心に説明し、たまたま当時流行っていた英国作家ジョージ・ウェルスの「宇宙戦争」の影響もあったせいか、多くの関心を呼びました。(実際エディントンは他のSF作品を引き合いに出して相対性理論を説明しています)
当時は兵役も義務化されていたため、その特別免除と合わせて、日食観測の許可を獲得することに成功しました。
と、一言で書きましたが、当時は相当な苦労があっただろうと推察します。
ドイツ国内でも状況が変わってきました。
1917年のロシア革命に続き、1918年にドイツでも革命が起こって帝国が崩壊し、一次世界大戦の停戦協定につながります。
そして停戦後に、海外の科学雑誌がドイツにも流通するようになり、その結果アインシュタインはやっとエディントンの日食観測への取り組みを知ることになります。
当時の喜びは計り知れなかったと想像します。
1919年5月にエディントン隊が撮像した貴重な写真は、パブリックドメインとして公開されています。
結果はニュートンでなくアインシュタインの予測を裏付けるものでした。
公の発表の前にその速報は学者間に伝わり、アインシュタインへの連絡は、敬愛するローレンツからの電報文書でした。
残念ながらそれを読んだアインシュタインの反応は公式な記録に残っていませんが(いくつか説はあります)、感涙してもおかしくないと思います。
自身が構築した理論が認められただけではなく、それを敵対国である英国の科学者がリスクを背負って検証してくれたことも含めて。
こぼれ話ですが、公式な発表後に、この実験結果を認めない相対性理論の専門家シルバーシュタインがエディントンと話した対話は、逸話として知られています。
シルバーシュタイン:「あなたは世界で一般相対性理論を理解している3人のうちの一人です」(専門家である自分も数に含めています)
エディントン:「そんなことはないですが、たとえそうでも3人目は誰でしょうね?」(要は強烈な皮肉です)
公式の発表直後に、その内容は英国の一般紙面を飾ることになり、その理論を打ち立てたアインシュタインの名声が英国を中心に一気に世界へ響き渡ることになりました。
そして世界各国から講演依頼が殺到し、その1つが冒頭の日本旅行です。
ここまで一気に名声を獲得した理由は、理論のすばらしさだけではないと思います。(逆に理論を理解した人はほぼいなかったかもしれません)
アインシュタインが当時の戦争下で排他的な国際社会・科学界を打破して国際協調に尽力したこと、その結果共通の知り合い経由で奇跡的に呼応した英国のエディントンによる、辛抱強く慎重な啓蒙・普及活動が実ったとみることもできます。
1919年末、そのアインシュタインとエディントンはついに手紙を通じた直接の対話を実現します。もちろんお互いへの尊敬と感謝がこもったものです。
さらに1921年にアインシュタインは、英国ロンドンにある権威あるバーリントンハウスを訪問し、ついにエディントンと直接的な握手が実現しました。そのときの正式な対話記録は見つかりませんでしたが、国を超えた同志として、両者が思うところは深かったと思います。
最後にその後の流れに触れて締めたいと思います。
今回のストーリーはそのわかりやすい例でしたが、新しい科学の発見はどうしても政治的側面が絡んできます。特に、戦争という行為がそれを際立たせてしまいます。
今回はたまたま第一次世界大戦直後だったこともあり、それが平和の象徴的な出来事として扱われた要素もあったかと思います。
ただ、その第一次大戦で敗北したドイツですが、当初革命側が志向していた社会民主主義を目指すという以前に、その膨大な賠償責任に追われていました。
その結果、徐々にその不満を抱えた集団による右傾化が進み、第二次世界大戦の遠因となっていきます。
当時世界でもっとも有名な科学者アインシュタインと戦争は、第二次世界大戦という舞台で新しい局面を迎えます。
※今回の主な参考書籍
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