「量子のもつれ」ばなし2
前回に引き続き、革命期にある量子通信の理論的根幹にあたる「量子もつれ」の歴史です。今回は人間関係も理屈ももつれてきます。
(タイトル画像は左からボーア・パウリ・ハイゼンベルグ(Wiki))
ド・ブロイの「物質波」をはじめとした援護射撃によって、ボーアの原子模型はチューニングを繰り返して信頼性を増していきます。
ボーアは原子核の周りを波状に漂う電子を殻になぞらえ、それが一定の数を上限として階層構造であると設計しました。そして、各階層(殻)に収まる電子の数にも決まりがあることを唱えました。
ただ、改めて同じような課題、つまり「なぜそうなるのかを説明できない」事態に陥ります。
いくつか仮説が出てきましたが、今でも生き残っているのは、ヴォルフガング・パウリ氏が唱えた「排他原理」と呼ばれるものです。
早熟の天才で、この貢献でノーベル物理学賞を獲得しますが、晩年に至るまで、偉大なる権威として素粒子物理学を中心に君臨し続けます。
元々、従来の物理情報であるエネルギーや運動量などで電子の状態を分類していたのですが、もう1つの量子状態(後年に電子スピンと呼ばれます)を定義して、それらすべてが同値の電子は同じ場所(電子殻)に収まることが出来ない、という原理です。
後年に、このスピンという概念が「量子もつれ」に関わっていきます。
ここで大事なのは、「原理」と書いているように、パウリでさえ、その新しく導入した量子状態が物理的に何を意味しているのかが分からず、電子同様にモヤモヤした状態でした。
そんな暗雲が漂う中、パウリから量子力学を学んだ新しい天才が颯爽と登場します。当時24歳のヴェルナー・ハイゼンベルク氏です。
余談ですが、今回登場するメンバーは、当時(1920年代)20代か30代です。明治維新の志士(もほぼ20代)を彷彿とさせますね。
ハイゼンベルグはもともと数学者になろうとしていたため、物理的イメージにはこだわりがありませんでした。やや失礼な書き方をすると、論理的に正しければOK、という超合理的なスタンスです。
そんなハイゼンベルグが、ボーア模型(の改善版)における離散的な電子軌道の運動量と位置の計算を行う方法を編み出しました。(今では行列力学と呼ばれます)
が、その計算結果によれば「運動量と位置は同時には分からない」という不可思議な事態を生むことになります。
そして何よりも、数学に強くない他の物理学者たちはこの計算の意味が分からず、途方に暮れる状況でした。
そんな物理学者たちに、エルヴィン・シュレディンガー氏が光をともします。猫のたとえで有名な方ですね。生命科学の世界でもレジェンド級です。
シュレディンガー氏は、アインシュタイン同様にド・ブロイの物質波に強い関心を持ち、それを数学的に表現する方程式を編み出しました。
今でもシュレディンガー方程式と呼ばれ、量子の研究で使われています。
そして面白いことに、この方程式で導いた結果とハイゼンベルグ氏の結果がが等しくなり、後年これらが数学的に等価であることが証明されました。
開拓したハイゼンベルグ氏は忸怩たる思いがありましたが、ボーアやパウリ、そして当時所属していたマックス・ボルン氏などお師匠筋も含めて、物理学者はシュレディンガー方程式のほうが分かりやすい、となびいていきます。
ただ、当のシュレディンガー氏は、あくまで物質波を数学的に説明する便宜的な仕事であったため、その物理的な解釈までは普及しませんでした。
面白いことに、ライバルの師匠にあたるボルンの解釈が有効になっていきます。(煽り気味に書いてますが、物理学者は学派よりは真実を追い求める方のほうが多いと思います)
ボルン氏の解釈を一言でいうと、
「シュレディンガー方程式は電子の存在確率を表している」
ということです。
この考え方が徐々に浸透して、後年にアインシュタインがボルンに宛てた
「神はサイコロを振らない」
という名言に繋がっていくわけです。
次回は、数学が難しすぎて物理学者に敬遠されてしまったハイゼンベルクの逆襲(?)から話を続けたいと思います。