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|低山ハイク|三上山(海住山)、加茂駅〜恭仁宮跡〜「海住山寺」尾根道「神童寺」〜「湧出宮」棚倉駅

2025年1月11日 
9時過ぎ、
JR大和路線「加茂」駅着。

改札口には
観光案内所、
「加茂」の散策マップあり。

昨年末に行った
岩船寺、浄瑠璃寺とは
駅を挟んで反対側の
北側に出る。

船屋通り、
船屋商店街との
表記の地図もある。
広い道には
数軒の実用的な商店、
いつも閉まっているのか?
土曜日の9時過ぎだから
閉まっているのか?

突き当たりが
木津川。

川に沿って、
右折し、

橋を
左折して
渡る。

奈良側の眺め、

恭仁大橋

田んぼの中を
歩き、
恭仁宮後へ。

ここ
木津川市は、
和束町に
隣接している。

山城最多の茶生産地和束町は、鎌倉時代に海住山寺にいた高僧・慈心上人が明恵上人から茶の種子を受け取り、鷲峰山の麓の「原山」に栽培したのが始まりといわれています。寺の五重塔は国宝で、他にも文殊堂や十一面観音立像など重要文化財も多数有しています。

日本遺産HPより


恭仁宮跡

京都府の南の端、
木津川市加茂町の
瓶原(みかのはら)にある。

恭仁京の範囲のうち、最も重要な「宮」の範囲が国の史跡として指定されています。

史跡恭仁宮跡HPより


聖武天皇は
疫病、度々の戦禍、
世情不安の事態を
打開するために
遷都する。

天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。
しかし、都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年(天平16年)2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都、さらに745年(天平17年)5月に都は平城京に戻された。

大極殿跡


少し歩いて


突き当たりを
左折し

右折して
山へ。
途中、
地元の人に挨拶。

獣よけを
開いて、
閉じて、

すぐに

加茂神社

参拝。

これから
お邪魔します。
と、脇道へ、

案内、由緒は不明。

ここは「加茂」
御所市は「鴨」
京都市には「賀茂」

心地いい、
ハイキング道。

倒木、
数箇所あるが
大丈夫。

しばらくすると、

案内通り
右折して、

駐車場が
見え隠れして
少し下ると、

海住山寺

瓶原を一望におさめる海住山の中腹、幽邃の地に、当海住山寺が創建されたのは、恭仁京造宮にさきだつ六年前、天平七年(735)のことと伝えられております。大盧舎那仏造立を発願あそばれた聖武天皇が、その工事の平安を祈るため、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を安置して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるということです。

海住山寺HPより

五重塔の
脇に出る。

聖武天皇は
大仏プロジェクト成功のた
平城京の鬼門を守るため
ここにお寺を建てた。

聖武天皇は、平城京の鬼門にあたる現・海住山寺の地に伽藍を建立すれば、東大寺大仏の造立が無事成就するであろうとの夢告を受け、良弁に命じて一寺を建立させた。

wikipediaより

受付で
呼び出しを押して
500円。

靴を脱いで
本堂にて拝観。

参拝。

お堂に収まる
本尊、神妙な気分。

そして
ぐるりと諸仏を拝観。

「ポストカード」左より、五重塔 本尊 十一面観音菩薩立像  十一面観音菩薩立像

出入口付近にて
ここからの眺め、
鳥瞰図的な
現在の風景画、
大きなな絵画が
奉納されている。

ご住職は、
ここのすぐ上からが
その風景と説明。

駅を挟んで反対側の
岩船寺、浄瑠璃寺の
当尾の里や
奈良までは10kmなど、

このあと、
三上山頂を往復するか、
山頂から神童寺へ降りるか
考え中と伝えると、


尾根道が
神童寺まで
繋がっていると
勧められる。

完璧な冬服。

脇の道を
上ると、

10:54
広場からの
良い
見晴らし。

お堂の絵の風景。

まずは
三上山山頂へ、

案内を頼りに、

サクサク
気持ちいい
尾根道。


ほとんど
アップダウンはない。

どこかで
「三上山」への
右折の案内があると
思っていたが、


11:31
案内は、
「サンフォレスタの森」
ここを右折すれば、
「三上山」の山頂へ
着くのだろうか?

スマホで確認、
位置情報では
山頂からは、
結構離れている。
しばらく悩み
山頂は諦める。

山頂へは、
一旦、下る必要がある。

住職の言っていた、
案内が続く
神童寺への道は、
この尾根道だろう。


食事をする
場所が無いので、
立ったまま、
カロリーメイト。

途中、
眺めよし。

途中、
道が不明瞭となり
広場のような感じになる。

間違っていれば
戻れば、
良いと考え
しばらく
そのまま歩く。


案内が現れ
一安心。

振り返り、
恭仁神社へ
下る道も確認。


この案内だけが
頼り、

鳶ヶ城
城址があるそうだが
行かず。
標高318m


この辺りからは
下りの
イメージ

里の
12時のサイレンが
聞こえる。

竹林が続き
段々と
竹は細くなっていく。

倒木、
よく周りを見ると
右側に
周り道が
出来ている。

お茶畑、
人の営みが
見え隠れし
ホッとする。



尾根道
およそ
1.5時間。

アスファルト道に出て
すぐ、
12:33着。

神童寺

神童寺は、594年から622年の間、日本を統治した、有名な聖徳太子(574-622)によって創建されたと考えられています。聖徳太子はまた初めて、仏教の教えを取り入れた憲法を制定し、仏教を強く支え広めようと努力しました。そして、それらの功績が讃えられ死後に、聖徳太子という名称が贈られました。

675年、神童寺伝説によると、山岳信仰、修験道の開祖とされる役小角が神童寺を訪ね、修行を続けたといわれています。このとき2人の子どもの姿をした神童が役小角の前に現れました。役小角は、その神童に敬意を持ち、日本独自の山岳信仰、修験道の本尊である「蔵王権現」を刻みました。神童寺の本尊とされ、のちに寺号を神童教護国寺と改められました。このように山岳信仰は、この地域に広められ、神童寺は、修験者にとっての要となりました。

南山城路の古寺巡礼HPより

聖徳太子が
創建したと考えられ、
役小角が修行を続け、
修験道の本尊である「蔵王権現」を刻む。

その後、像は焼失、
現在の本尊は室町時代作のもの。
奈良の
吉野山に対して
北吉野山という、


本堂の右奥、
高い位置にある
宝物蔵。

拝観は右側
呼び鈴を押して
お堂を開けてもらう。
拝観:500円

お寺の奥さんを
「お大黒」という。

本来、
肉食妻帯は
禁じられている僧侶。

台所の守り神は
大黒さんだから
そう呼ぶと
落語で聞いた。

とまあ
たった一人の
拝観でも
「お大黒さん」は
対応していただける。

本尊の
「蔵王権現」
拝観、

博物館や
宝物殿でない、
こういう場所では
般若心経を
唱えられば
間がもつと思うが、
蔵王権現の
インパクトに
ただただ眺める。

次は宝物蔵へ

階段を

上り

回り込むと

宝物蔵に出る。

鍵を開けてもらい、
ゆっくり
拝観。

こちらの不動明王は
人間的だ。

「ポストカード」左より、本尊 蔵王権現像 不動明王立像 愛染明王像



以前、
奈良国立博物館で開催された
「聖地 南山城」では
この不動明王立像が
マグネットのグッズになっていた。



満足して
駅へ、
ここから
およそ30分。




写植!
デザイン印刷関係の方は
懐かしい。
macが普及して
今は、もうなくなった。
(級数を測って、
デザインに落とし込む
写植指定。
イメージ通り上がってくるか
不安だったことを思い出す。)

駅前には、

涌出宮

和伎座天乃夫岐売(わきにいますあめのふきめ)神社が正式名であり、通称、涌出宮と呼ばれています。社伝によると、天平神護二年(766年)伊勢国(三重県)渡会(わたらい)郡五十鈴川の舟ケ原から、天乃夫岐売神を勧請(かんじょう)したのが起こりとされています。

雨をもたらす神として古代農耕民に崇拝されており、中世以来続く宮座行事は国の重要無形民俗文化財に指定され、2月の「居籠(いごもり)祭」は天下の奇祭として有名です。

木津川市HPより



拝殿の奥

参拝。




天満宮

伏見人形か?




1:30過ぎ
京都に繋がる
JR奈良線「棚倉」駅着、
「奈良」駅までは4駅。

三上山山頂には
行けなかったが
「海住山寺」と
「神童寺」を繋ぐ
尾根道が快適。

そして、
どちらのお寺も
仏像が、
とても良い。

ただ、駅までが遠いが、、、
それもまた良し、
ありがとうございました。






遷都

天平12年(740年)、聖武天皇は伊勢国、美濃国と関東を行幸後、平城京へ帰途の途中の同年12月15日、恭仁京に遷都を行った。その後、天平16年(744年)2月26日に難波京、更に天平17年(745年)1月には紫香楽宮へと目まぐるしく都を移転させた後、同年中に平城京へ帰還した

wikipediaより

平城宮跡の記事

藤原宮跡の記事


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