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意識に関する雑な話

「知覚」に興味を持って色々と調べていた時期があった。

思考活動は知覚、認知、判断の順に進むが、そこに意識が介在することがある。無意識が判断に影響することはあるし、意識せず自動思考が起こることもある。また、直観や、中動態のような近接する概念が多々あって、難易度が高い。

その過程で「意識」を考えることは避けられなかった。意識とは何か。なかなか説明は難しい。

無意識、バイアス、意識改革、、、さまざまな人材開発ニーズは意識に関わる。マインドフルネスなども意識と重なるかもしれない。意識は目に見えず、結果として行動に顕れる。

では、行動の手前には何があるのか、これを一つづつ手繰る。すると到達するのが意識だ。意識が変われば行動も変わるのだろうか。このところ注目している○○シップなどは意識問題なのである。

意識は、英語ではコンシャスネス。人事の業界では、昨今アンコンシャスバイアス駕有名だ。アンコンシャス(無意識)はコンシャス(意識)の反対に見える。僕の世代はコンシャスを「ボディコン」で覚えた人が多いだろう。

意識の話には自分なりの答えが出せていない。ただ、考える上での足がかりはあるので、それについて書きたい。

意識に関するフレームワーク

まず、意識とは意+識である。識は、フレームワークが存在し、漢語由来の多くがそうであるように仏教由来のフレームワークが日常に使われるようになっている。

「六識」「八識」がそれである。仏教では、識は「心」を指す。六識はいわゆる五感と概ね対応する眼識、耳識、鼻識、舌識、身識に、「意識」を加えたものである。(五感は、アリストテレスによる西洋のフレームワーク)

六識、六根、六境

ここから識を除いた、眼、耳、鼻、舌、身、意は、六根と呼ばれ、これもフレームワークである。六根が認識機能として六識になり、六境と言われる色、声、香、味、触、法と対応する。

例えば、色を眼が捉えて識するという流れがあり、境→根→識と流れていく。これは、外界の動きを感覚器が捉えて認識するという流れときれいに一致する。この知識を得て、美しいと感じた。

さて、今回は五感の話ではないので、一旦、意識に戻りたい。ここまでの話だと、五感はわかる気がするが意識については分からないかもしれない。

意識について切り出すと、法→意→識となる。ここで注目したいのが法だ。仏教での法と僕の思う法に違いがあると赤っ恥なので調べたところ、法則、秩序、真理などの単語が並ぶ。(なお、ダルマの訳が法とのことだ)

意識とは

なので、6つ目の識である意識とは、外界のあらゆる事象を五識で捉え、それを感覚器ではない知覚で処理することだ。

それが説明できるものであれば論理、説明できないものであれば直感となる。直感は、潜在意識における論理活動の結果なので、いずれも論理といって差し支えない。

このあたりは、唯識論についての本をみて調べた。



第六感

いわゆる第六感は、映画「シックスセンス」が有名になったり、虫の知らせなど、霊的なものや霊感と思われがちだが、本質を見抜く心の働きを指す西洋由来の言葉で、概ね六識と一致するように思う。

八識とは

冒頭に「六識」「八識」と書いた。ここまでは、六識について書いたが、八識とは何か。

七識として末那識、八識として阿頼耶識がある。世代の人だと聖闘士星矢で登場したセブンセンシズ、エイトセンシズを想起するかもしれないが、おそらくあれはインチ(ゲフゲフ、風邪をひいたようだ)である。

阿頼耶識については、文化人類学のレヴィストロースが説明した「野生の思考」に近いものかなと思う。たまたま読んだ本に以下のような説明があった。遺伝的記憶のようなものだと思う。

「野生の思考」というのは、二〇世紀の知性と呼ばれた人類学者クロード・レヴィ=ストロースが指摘した、人間の誰もが遺伝的に持っている脳の生理機構に根ざしたものの考え方のことです。たとえば世界中の民族にはそれぞれに「神話」があります。現代人の科学的思考からするとありえないような話が神話にはたくさん出てきますが、それは「史実」ということではありません。実際に起こったことを叙述しているのではなく、なぜ「もの」(動物・植物・鉱物)が存在し、「こと」(気象・自然)が起きるのかについての「考え方」(野生の思考)を述べているのだとレヴィ=ストロースは指摘しています。

月と蛇と縄文人

そして、人材開発との直接的関連はまだ見いだせていないので、いずれ書きたい。

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