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ナミビアの砂漠
昨年の映画で見逃していた作品を見ようと思い、山中瑶子監督の『ナミビアの砂漠』を鑑賞しました。劇場公開時に観ていたら、間違いなく2024年のベストに入っていたな、と思い、映画館に行かなかったことを激しく後悔しました。いや〜、こんなにも新しい日本映画が生まれていたなんて。
自分がこれから書くことは深読みしすぎかもしれませんが、そうさせる余白と深みがある映画なのだと思います。「お前、それは考えすぎでは?」というツッコミを入れながら読んでもらえると幸いです。
オープニング、町田の喫茶店で友人と同級生の自殺について話す場面から、度肝を抜かされました。自殺の話と近くの席に座るしょーもない男どもが話すノーパンしゃぶしゃぶの話題が同時に聞こえるんですね。この映画は生(性)と死、エロスとタナトスの映画なのでは、ということを僕は思ったのです。もしかしたらエロスとタナトスだと限定されすぎているかもしれません。二つの事柄の間でもがき、戦う映画、だと僕は思うのです。
登場する二人の彼氏も非常に対称的です。最初の彼氏は社会性があり、面倒見のいい青年です。彼と別れたあとに付き合うのは、いわゆる〝社会〟から遊離しているような、クリエイターの〝夢〟を追う青年。主人公のカナは、社会と夢の間を行き来します。また、二つの穴を繋ぐ鼻ピアスも、非常に象徴的だなと思いました。
エロスとタナトスとか言いつつ、僕にはフロイトの『快感原則の彼岸』まで風呂敷を広げてしまえるほど知識はないのですが、フロイトの影響を受けている映画監督を知っています。アレハンドロ・ホドロフスキーです。『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』は無意識や象徴、トラウマの克服といったフロイト的なテーマが強く反映されています。山中瑶子監督の過去のインタビューを読んでいたのですが、映画に目覚めたきっかけは、高校生の時に観た『ホーリー・マウンテン』なのだとか。僕は、『ナミビアの砂漠』は『エル・トポ』と『ホーリー・マウンテン』を受け継いだ映画という気がするのです。
例えば『エル・トポ』では性と暴力による自己再生が描かれますし、父と子の関係(エディプス・コンプレックス)も重要なテーマです。本作のなかで直接的には語られないですし、深読みしすぎかも知れませんが、カナは父親との間に問題があったのでは、ということが示唆されるセリフがいくつかあるように思えます。オンラインのカウンセラーから受ける質問や、その後の女性カウンセラーとの「ロリコン」を巡るやり取りなど。そしてそれが、彼女の苦しみの根源になっているのでは、という気がするのです。
また、彼女が日本人ではないという部分についても、二つの国という、これもまた二つの事柄の間にいる存在ということで、アイデンティティの問題を抱えているのではないでしょうか。
脱毛サロンという職業設定も意味があるように思えます。生まれてくる(生えてくる)毛を殺す職業。一方で、カナは新しい彼氏のハヤシが過去に元カノに堕胎手術させていることに怒りをあらわにしている。彼女は脱毛サロンをクビになりますが、生命を、生きることを無意識に求めているということなのかなと思いました。その後、ミニチュアの砂漠に木を植えるシーンが出てくるし。
それか、彼女も過去に堕胎していた、ということも考えられるのかなと思いました。序盤でピルを飲まされていたり、元カレが札幌出張に行ってる間に堕胎手術をした、という嘘のあとに突然涙を流していたり…。
予想を交えたことを色々書きましたが、僕がこの映画で一番感動したのは、ホドロフスキーがどうこうとか、エロスとタナトスがどうこうとか、そういうことではありません。僕が感銘を受けたのは、彼女の過去が語られないところです。それは、〝物語〟になっていないということです。
カナが脚本を書くハヤシに対して怒るシーンがすごく重要じゃないかと思うのですが、彼女はハヤシが自身の過去を〝活用〟した脚本を書くことに対して激しく怒ります。(これは創作者であればやってしまうことなのではないでしょうか)僕は、彼女自身が物語に対して抗っているように思えるのです。フロイト的に言うのであれば、物語という〝抑圧〟であり、〝暴力〟に、です。
彼女の過去が語られないことで、監督自身が物語に抗っているような姿勢を感じたのです。物語にされてたまるか、と。そのうえで、映画を作っている。これって、すごいことだと思うのです。描いているのは、現在進行系の戦いであり、抵抗。陳腐な言葉ですが、カッコよすぎです。
ちなみに、僕はハヤシにも彼なりの抱えていることがあると思います。友人に官僚がいるほどのエリートが、なぜあのような生活をしているのか。彼には彼の語られない物語があるのでしょう。
もう一つ、唐田えりかとともに焚火を飛ぶシーン、あれは『ミツバチのささやき』のオマージュかな、と思ったのですが、どうなのでしょう。『ミツバチのささやき』において、アナたちが焚火を飛ぶシーンは、通過儀礼や再生の象徴であったり、生と死の境界線を示唆していたり、という解釈があります。『ナミビアの砂漠』におけるあのシーンは、どのような意味合いなのか。まだ自分の中でうまく言語化できません。
まぁ、タイトルの意味とか、終盤のピンクの小窓のシーンとか、全然分からない部分があるのですが、そういう部分も含めて大好きな映画です。山中瑶子監督、これから作る作品が本当に楽しみです。