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あなたの「個性」を活かすためにAIを使おう(2) ~ AIにまず「常識」を教えてもらおう


「AIが作った文章には個性がないから使い物にならない。よってChatGPTなど仕事に導入する必要なし」としたり顔で言い切る人たちがいます。

本記事シリーズの目的は、そういう人たちの思慮の浅さを指摘し、AIはちゃんと個性的な仕事をサポートできると主張することにあります。

前回記事では、AIと人間が分業し、少なからず存在する「個性が求められない」仕事をAIに分担してもらうことの意義を論じました。

今回はさらに踏み込みます。「個性」が求められる仕事にAIを直接役立てることだって可能だという話をします。

まず確かなものにしておきたい。「個性」とは何か?

生成AIが生み出す作品には個性がないからオワコンであるという主張は、そこそこ目にします。

最近愛読させてもらっている「しちゃうおじさん」もこんなことをおっしゃってます。

文章生成AIで作成した文章を編集してnoteの「記事」として投稿している人って、そもそもの目的が謎。

自覚があるのかないのかわからないけれど、やっていることの本質は、15年以上前の量産系アフィリエイターや8年前に大問題となったWELQ(ウェルク)と、何ら変わらない。

https://note.com/shichaoji/n/ne3c774c28464

こういいたい気持ちは分かりますよ。たしかに丸写し系の量産記事はあるし、目障りだとも思います。

ただ、「目的が謎」という見解は、私からすればそれ自体が謎なんです。仕事は結果がすべて。その途中にAIが絡んでいるか否かは本質的ではありません。

「大問題となったWELQ」が問題だったのはコピペによる著作権の侵害と裏取りが適切になされていないことによる信頼性の致命的欠如だったと思います。全てが手作業であったとしても起こり得ることであり、実際のところ問題になったのはAIの華々しい登場以前のことでした。

逆に言えば、成果の99%AIによるものであったとしても、出来上がったものが良いものであればいいのですよ。

でも現実に個性が感じられないんだよ! と、再反論を受けるかもしれません。

そこで、この際こちらからも問うてみたいわけです。「そもそも個性とは何?」と。

個性を問うには常識を問わなければならない

数値にできる世界でも、そして数値化できない世界でも、商品・サービスの業界には、作り手側には「こういうものが良いものだ」という業界内の常識があります。

でも、何かの粘着性のあるファンをつくるブランドというのは、その「良いもの」とされる常識から少しズレて、既存の業界の常識からすると「何か劣っている」けど「今までにない体験ができるもの」が付加されているものが多い。

https://note.com/blogucci/n/n851cb1017e11?magazine_key=ma59985ac8e43

個性を語るには「常識」についての考察が欠かせない

個性とは、単なる独自性ではないのです。既存の常識や規範を母とし、それを「少しだけ」外すことによって生まれるものです。完全な逸脱ではなく、微妙な変異こそが個性を形作るのです。

ここでは個性の定義について哲学的な議論を深めるつもりはありません。考えたいのは、私たちの身の振り方を考えるうえで実際的・現実的な定義です。言葉を変えれば「社会に認知してもらえる≪個性≫とはなんぞや?」ということを考えなければならないと思うわけです。

そのような文脈では、個性的≒「常識からすこしだけ外れている」ということになろうという話です。

個性を受け入れてもらうには常識を「少しだけ」外さなければならない

  • 常識に盲従してはいけない

  • かといって常識を無視することはできない

個性は常識との微妙な関係性の中で生まれる。そこを確認したら、次の問題はこの「少し」の見極めを以下に為すかなのです。「一ミリも外れていない」・「少し外れている」・「大幅に外れている」の境界線はどこにあるのか。それが分からないので多くのクリエーターがあーでもないこーでもないと苦労するわけです。

ちなみに、この図式は創作だけではなく学術論文の公表においても同じです。当事者があまり面と向かっては言わないことですが、既存の論文からの接点がなさすぎる論文は、どこの出版社も受け入れてくれません。編集者・レビューアーがその「真意」を理解できないから!

常識の基準が見当たらないなら作ってもらおう

常識を外さなくてはダメ、でも外し過ぎてもダメ。

このジレンマに多くの人が悩んできたわけです。ところが、いまや我々にはひとつの救世主がついてくれるようになりました。

それこそが生成AIなのですよ。

生成AIは「ザ・常識」である

生成AIは単なる模倣機械ではありません。膨大なデータから新たな組み合わせや解釈を提示できるツールなのです。

生成AIが出してくるのは、常識の基準となりうるもの。創作者は、AIが提示する「常識」を批判的に検討し、それを基準として「少しだけ」外れた地点を見出すことができる。AIを「逆説的に」活用することで、むしろ個性的な創作が可能になるのです。

常識を外すには、まず常識の基準をはっきりさせる必要があります。

この作業が難しい一因は、基準があいまいな点にあるのです。それならば基準を改めて立てればよい。すなわち、AIに問いを与えて回答を提示してもらい、それを基準として使えばいいのではないでしょうか。

次回、実践

AI任せではダメだ、個性を出せ独自性を出せという。AIライティングの指南をしようとする記事の多くがそういう締めくくりです。

しかしですね、ChatGPT登場当時ならともかく、今更その「結論」はないんじゃないかと思うわけです。そんなことはもうみんな気づいてるでしょ。問題はその先のノウハウですよ。

かくいう私とて、究極にして至高なる結論を得たわけでも何でもないですが、せめてもう一歩先をという問題提起をしている次第。

今回、そのような方針に基づいて試みたChatGPTとのやりとりまで一気に書き進めようと思いましたが、既にだいぶん記事が長くなってしまいました。いったんここで「前半終了」とします。後半に乞うご期待。

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