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私、エジソンの母でございます

専門職の夫、理系長男、体育会系次男、うちの家族は所謂ADHDという個性を持っている。自分の興味のある分野には深くハマるが、それ以外のことは危うい。
コミュニケーション能力が怪しい夫が一番手強い。だって私が育ててないから。国籍も文化も宗教も異なり、共通の趣味もない人と文化交流のための同居をしている感じで、アナタノイッテルコト、ゼンゼンワカラナイデスというすれ違いが多く、窮屈だが自由で理解と無視が必要だが、食文化と清潔感が近いおかげで仲違いしないし、稀に共感したときは果てしない幸福感に包まれる。
「お母さん自身も若い頃は苦労なさったでしょう」と、ドクターが私を優しく見つめたことがあった。苦しいのは注意力欠如と過集中に加えて、自閉の傾向が強いからだと私は診断された。え、私もオカシナ人だったのかとそのとき初めて知った。
長男は幼児の頃から不思議なオーラを漂わせていて、長男の子育ては多くの人を巻き込み、奇想天外、汗と涙とスリルとサスペンスに満ちていた。エジソンは発達障害だったと言われていたので、「私、エジソンの母でございます」というタイトルの育児日記兼大学病院の診察に提出するレポートを当時の私は綴っていた。診察を始めた5年後、長男がすこしばかり落ち着きを見せ始めた頃に「エジソンの母」というタイトルのドラマの放映が始まった。「おー、時代が僕に追い付いたぜ」と喜び、「母さん、もっと早くドラマ化したらよかったのに」と悔しがっていた。
「ADHDあるあるは、わりとどこにでもあるんだけれど、僕は母さんのエピソードがなかなか面白くて、親しい人との飲み会とか共通の話題のない上司に話すとウケるんだよ」と衝撃的なことをさらりと言われた。「スベらない話的な感じだよ」というわけで、それら幾つかのエピソードを過去の記録と息子の話を参考に、息子目線で書いてみた。自分の落ち着きのなさが露見されたが、今までTwitterに息子の話を書いてしまったから、今回は自分のを晒すことでおあいこになればいいな。

公開お母さん

僕と弟は6学年離れている。弟が小1のときに僕は中1。だから1年何組の連絡ですと電話やプリントがあると、わりと頻繁に母は僕と弟の行事やお知らせを間違えていた。
中学の公開授業に母は息を切らして来たことがあって、あとで弟に聞いたら、間違えて小学校の授業をひとりでしばらく見学していたとのこと。後ろの席の女子に、今日うちのママはお姉ちゃんの中学に行ったよと教えて貰って気づいたそうだ。
中学の公開授業に来る保護者はあまりいない。体育だったり音楽の発表だったり、イベント的な授業にしか保護者は集まらない。なのに母は日本史の授業にやって来てしまったものだから、皆の注目の的になった。僕が色々やらかすから、母は毎年PTAの本部役員の書記をしていて、先生方とは顔見知りだ。だから日本史の先生はせっかく来てくださってるからとあろうことか母に席を用意しプリントを渡し、授業に参加させてしまった。母は歴史や地理や物理、政治経済について恐ろしいくらいに無知だ。が、大河ドラマの役柄を当てはめながら授業を進める先生の話には引き込まれて「質問ある人?」の問いかけに全力で挙手しちゃっている。夢中になると周囲が見えないのは、僕と同じだ。今日の「公開授業」は「公開お母さん」になってしまった。

母の怒りどころ①

弟が剣道を習いたいと言い出し、剣道教室に見学に行った。当時、引きこもりがちだった僕も、帰りにお昼を食べに行くからという理由で連れて行かれた。母は「自分が剣道の経験者だと言わないでね、高校の部活で初段に合格、引退稽古をサボるとか絶対秘密だからね」と僕たちに約束をさせた。部活で真面目にやってなかったし、人生の計画の中に剣道は入れてないからだそうだ。けれども母と弟とそれから僕も、剣道の稽古に通うことになった。先生に挨拶をして、「お兄ちゃんもやってごらん、思春期に大声出して発散しよう」と竹刀を渡された僕を、体育館の隅に座って微笑みながら見ていた母だったが、たぶん「黙想!」を躊躇せずにこなしていたときから周囲の人たちには見破られていたのだと思う。お母さんもせっかくだから振ってみたらと強く勧められて、「えー?竹刀ですか?無理ですー」と何回か断って仕方なく立ち上がったが、正しく自然に竹刀を握って右足を前に出して踏み込み、防具をつけた先生にパーンとかっこいい音の面を打ってしまった。
そして三人で稽古を始めることになり、事件は起きた。負けん気の強い弟が試合のことで歳上の男の子と喧嘩になり、相手に胸ぐらを掴まれたのだ。「殴るぞ」と迫る男の子に「やってみろよ」と弟が睨み付ける。あわてて僕ら中学生が母を呼びに行くと、喧嘩している二人には「ちょっと一回離れてくれる?続きはあとでやらせるから」と言い放ち、僕ら中学生の方を向いて仁王立ちになった。「残念すぎる!喧嘩を止める場面なんか人生でそうそうないことなのに、なんであなたたちはそのチャンスを見逃した?ここぞというときに力を発揮できないなんて!小学生の喧嘩の仲裁が出来ないなんて!情けない!」と母はすごく怒ってちょっと泣いていた。僕はしまった、と思った。弟たちは「喧嘩の続きはもういいです、ごめんなさい」と言って掃除を始めた。僕ら中学生は、また誰か喧嘩しないかなと反省した。

母の怒りどころ②

高校生の僕は、期末テスト前夜の一夜漬けでとにかく眠くて、帰りの電車で爆睡してしまった。なんとなく途中で寝過ごした気もしたけれど、少し寝てから戻ればいいやと思ってそのまま気持ちよく電車に揺られることにした。一度寝たらなかなか起きられないことも忘れて。そして気づいたら乗った駅から168㎞先の高崎駅にいた。慌てて携帯を開いたらバッテリー切れ。駅員室を訪ねて電話を借りた。帰りの電車はなかなか来なかった。日は暮れてお腹も空いてきた。午前授業だからすぐ帰宅できると思い、小銭しか持ってこなかったことも悔やんだ。
自宅の最寄り駅に着くと母が待っていて、今回は乗り越し代金は要らないと説明してくれた駅員さんに何度も頭を下げて、担任の先生にも無事に戻りましたと電話をかけながら深々と頭を下げたのを見て、また迷惑をかけてしまったと情けなくなった。
そして母は運転しながら後部座席の僕を叱った。携帯のバッテリー切れに気をつけること、常に最低千円は持っていること、そして物事にはオチをつけること。(『祖父の噺』の記事を読んで頂けると母が訴えるオチの必要性への理解が深まります) ここまでは想定していたことだが、ここから母は怒り出す。 「高崎まで行ったのに、お土産なし?写真もなし?ダメでしょ、高崎にも失礼でしょ。失敗したってちゃんと謝って、最後は笑い話にする!反省するのは当たり前!大事なのはその後!わかる?すごく、すごーく心配したんだよ」と爆発した。そして「ダルマ、記念に欲しかったなあ」とため息をついていた。失敗しても最後は笑い話にして、いいらしい。

タイムリミットは15分

僕がトラブルを起こしたり巻き込まれたりすると、母は学校に呼び出される。学校まで走れば30秒だし、当時の母は在宅で仕事をしていたから、何かがあればすぐに駆けつけてくる。だから、学校の役員も引き受けることになった。一緒に役員をしていた人は、家にいると姑とぶつかるからとか、登校拒否の娘がいるからとか、身体の弱い息子の様子をこっそり見たいから、という保護者の人たちの集まりで気が合い仲良く作業が出来ると、毎年同じ顔ぶれで役員を続けていた。
母は書記なのだがボイスレコーダーが使えない。一度聞いた話をもう一度聞くことが出来ないらしい。二度目は頭に入らないのだそうだ。だから会議中の話をすごいスピードで書き殴る。
学校創立記念イベントでPTA役員と生徒会で会議をしたときに僕は放送委員として出席したら、母はガツガツと議事録を書いていた。そして、校長先生がビックリする発言をした。「はい、書記さんのタイムリミットですね。15分経ったから休憩にします。はい、皆さんも腕を回して、首も回してー!」って、おいおいうちの母さん待ちかよ、って周囲を見渡したけれど、他の役員のお母さんたちもいつもの当たり前のこととして普通にしている。保健の先生は「キミのお母さんは自分が15分しか集中が続かないから、キミの集中力が続かないのは自分の遺伝子のせいですっておっしゃっていて、校長先生は誰だって15分したら休憩入れた方が効率がいいって、いつもこんな感じなのよ」と僕に教えてくれた。僕の担任の日本史の先生が、15分経ったから1回休憩って2分の休憩を授業に挟むようになったのは、タイムリミットのある書記さんと関係があるのかなあとか思ってしまった。

じいちゃんの最期

祖父が末期ガンで1ヶ月の余命宣告を受けて、僕も学校の帰りに何度かひとりで見舞いに行った。光学電子機器の小さな会社を経営していた祖父は、僕が高校の授業で作った基盤を掌に乗せてうまく出来たなあ、とベッドの上で大事そうに眺めていた。
祖父の命が消えかかっている連絡を受けた母は、叔父さん(母の弟)と病院に向かった。ここから先の話は、葬儀でも聞いたし法事でも聞いた。母と叔父さんはふざけた訳じゃないのにと後悔するが、祖父の兄弟は「お前たちらしい、よしよし」と笑い話になっている。
その日、祖父の身体からはチューブもマスクもすべて外されて、少しずつ呼吸が減っていく音だけが聞こえていた。その時間がどこまで続くのかわからない、と留守番をしていた僕に母からメールが届いた。そして最後の呼吸だけは静かで短くて、叔父さんが母を見て「今のが最後だったと思う」と言って、祖父の手を握ったそうだ。そしてしばらく母と叔父さんは祖父の顔を見つめていたが、次の呼吸はなかった。泣き叫んだりとか、声を掛けたりしなかった、空虚な時間だったと母は言う。しばらくして叔父さんが握っていた祖父の手首をそっと置き、母に「うん、最後でした、ご臨終です」と言ったから、母は自分の腕時計を確認して「16時23分です」とその時刻を告げた。二人は静かに手を合わせ、「お疲れさまでした。ありがとうございました」と頭を下げたと言う。そして「ん、医師は?看護師は?」と叔父さん。「親子の時間をくれたみたいだけど、えっと、私が時間を言うのダメだよね、ね、父さん」と母。祖父の顔を覗き込んで、二人は笑ってから、「だめ、不謹慎、シーッ」と唇を押さえたらしい。その後、医師と看護師が病室に来て時刻を確認する様子に、二人は本当の時間はそれじゃないと笑いと涙を堪えたそうだ。

ふざけてる訳じゃないのにね、なんかやらかしちゃうんだよね、わざとだと思われちゃうんだよね、と母が落ち込む。見ていて、ちょっと面白い。スベらない話の母の日スペシャルみたいになったが、実はまだほかにもエピソードはあって、140文字で収まるのもあるから、Twitterでイケるよ、母さん。

まだ、あるらしいです。とほほ、です。