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褐色の恋

 よく珈琲を飲む人だった。少し茶色がかったその瞳に揺れた褐色を映し出すその姿を見ているだけで、いつの間にかドラマや映画の世界に入り込んでしまったような気分になる。彼はよく、珈琲を飲む人だった。


 カーテンの隙間から覗いた光が、真っ白な海から出た四肢が昨夜の出来事を物語っている。瞳に代わり映えのしない天井を映し出すと、次にやってくるのは必ずと言っていいほどあの香り。鼻腔いっぱいに広がるその香りが、「おはよう」と私に声をかけるその声が、ほろ苦くて、ちょっと甘くて、嫌いだった。

 また、あの香り。嫌いだと言っているのに彼は珈琲を飲むことをやめようとはしなかった。私の唇を塞ぐ時、必ずその香りは私の鼻からすっと抜けて脳天までいっぱいにしようとしてくる。

ああ、だから嫌いなんだ。この香りも、彼も。



 彼が普段、何をしているのかはほとんど知らなかった。仕事、家族構成、恋人、住んでいる場所。唯一知っているのは、連絡先と水曜日は私のために使うという事くらい。カフェで声を掛けられた時はさすがに運命の人だと思ったけれど、そんな幻想はすぐに打ち砕いてしまうのが彼という人間だ。
 彼が私を大切に扱うのは、決まって水曜日の夜。水曜日の夜だけは、私に甘い愛を囁き、ほろ苦いキスをくれる。彼は私を一晩中満たした後、必ず瞳を褐色に染めた。
 彼は私と会わない日は連絡をすることはおろか、二人で真っ白な海に飛び込みたいという私の願いすら許さなかった。私に愛を与えるくせに私を全然好きじゃない彼のことが好きで大好きで、大嫌いだった。


「ねえ」

 彼がこの部屋で過ごした時間はもう数えきれないほどになる。慣れた手つきでボタンを押し、ほろ苦い香りを抽出する彼の後ろ姿に声をかけた。

「なに?」
「今日で最後にする」

 私をとらえる彼の茶色がかった瞳が揺れて、手元の褐色も私の心も彼の瞳と同様に揺れている。今ならまだ、なんて良くない考えが頭の中でうるさいほどに警鐘を鳴らし始めたところで、彼は今まで以上に甘く微笑んだ。


「どうして?」
「好きな人が出来たの」


 もうずっと前から好きな人。私の全てを褐色に染めてしまうような、大嫌いなものまで大好きに変えてしまうようなほろ苦くて甘い人。彼といると脳天まで届くような甘い幸福感と、深い海の中で息が出来ないような苦しさに襲われた。まるで麻薬のような一時の幸福感に浸って、それが終わると全く息が出来なくなる。そんな自分が惨めで、深い海で彷徨う私を救って欲しかった。ただ、そんな私の手を掴むのは彼じゃなきゃだめで、それがまた私を深い海の底に落としていのだと思う。


「そうなんだ。僕が彼氏になると思ってたのにな」


「おはよう、よく寝てたね」


 ゆっくりと瞳にいつもと変わらない天井を映し出すと、そこには茶色がかった彼も鼻腔いっぱいに広がるあの香りもしなかった。その代わりに香ばしくて甘い香りが私の鼻腔を満たしている。


「朝ごはん、一緒に食べようと思って」


 そう言って笑う『彼』はいつでも私に愛を注いでくれた。


 ほとんど使われなくなったあのマシンは今日も私を見て「幸せか?」と嘲笑ってくる。

 ほろ苦くて甘いあの香りは、いつまでも私の脳裏に焼き付いて今でも私を離そうとはしてくれない。


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