サ ヨ ウ ナ ラ
見覚えのある薄っぺらいものが、私の部屋の薄汚い床の上に落ちる。
これを落とした犯人はきっと彼だ。
そして、薄っぺらいものを入れていたであろうコインケースは私の机の上に置かれている。
*
彼は、多分色んな女の子と寝ている。彼と一緒に居る時に何度も光るスマホを見ては、傷ついた。
”ねえ、そんなに沢山の子とどこで知り合うの?”と、何げなく聞いてみたこともあるけれど
「んー、覚えてない。でもお前とのは勿論覚えてるよ。去年の河川敷のバーベキューで……」
と、覚えているようだったから、少なくとも自分は特別な存在だということは理解していた。
今日も彼の投稿を見ると、最近近くにできた映画館が写っている。どうして私ではなく他の子なのだろう。私の中にある黒い塊が大きくなっていくことを感じたが、それ以上に”彼に会いたい”という思いの方が強かったのかもしれない。
『今から映画!』
投稿されているのは二時間前のため、今頃は観終わっているだろう。インスタのDMを開き、彼に連絡を入れる。今思えば電話番号なんて知らない。だが、今時そんなものは知らなくても不便は無い。
『今日は来てくれる?』
『うん。行く』
*
彼が来るまでの間に、張り切って肉じゃがを煮込んだり、掃除をしたりしていると、あっという間に彼が来る時間になっていた。
ピンポーン
私の好きな音が鳴る。急いでドアを開けると、彼は微笑んで立っていた。
「おかえり」
夏の生暖かい空気が入り込む中、私が彼を両手で包みこもうとすると、彼は慌てて部屋の中に入り、手も洗わずに洗いざらしのシーツに飛び込む。外の気温で汗ばんだ指先が”早く”と私を呼んでいた。
彼は必ず月・水・金曜日に現れる。初めて知り合った時から、早くも二度目の夏を迎えようとしていたが、私たちの関係に何か変化が訪れることはなかった。日本の四季はこんなにも変化し、人々を喜ばせているのに彼が私を喜ばせることは、ほとんどない。
隣ですやすや寝息を立てている彼の頬にキスすると、ゆっくりと彼の瞼が開く。
「あー……ここにいたのか」
「コインケース、忘れてたよ」
「……あ、中見た?」
「うん。見た」
「いつもは使わなきゃ使わなきゃって思ってるんだけど…ごめんね」
「うん、大丈夫」
”だって、妊娠したら結婚するつもりなんだよね?”と喉まで出かかった言葉を言おうとして、彼の寝息にかき消される。
しばらくして彼のスマホが光り、気付けば彼のスマホのロックを解除していた。すると、タクミという彼の友人とのトークが一番上に出てきた。
友『今夜暇?』
彼『いや、女と寝る』
友『彼女?』
彼『セフレだよ。本命は昼間映画観てきた』
友『やってんなあ。その子も可哀想。騙されてるなんて』
突然雷に打たれたような衝撃が全身を駆け巡る。本当は全部知っているはずだったが、やはりずっと目を背け続けて来た事実をいざ目の当たりにすると、こんなにも胸が苦しい。
彼がいつでも私の顔を見ようとしない事。本当は、一人だけが特別な存在になっているという事。その子との時だけゴムを付けるという事。大切だから付けるという事。じわじわと、私が目を背けて来た事実が私の中に黒い雪のように入り込んで、私の心に積もっていく。また少し、私の黒い塊が大きくなった。
「おはよ」
目覚めると同時に私を求め、作っておいた肉じゃがも食べずに帰って行く。家に入るときには笑顔だが、帰るときは全然笑っていない。彼女にはどんな顔を見せているのだろうか。さらに目を背け続けている事実を、これ以上自分の中に取り込みたくはないと強く感じた。
彼は今からどこへ向かうのだろうか。再びインスタを開くと、フォロワーが一人、減っていた。
パンッ
大きな音が聞こえる。気付けば私の中の黒い塊はすっかり無くなり、私の中にプカプカと海に浮かぶ海藻のように浮かびあがってきた。
*
彼のコインケースを撮影する。コインケースにはブランド名とは別に何やら刻印がされているけれど、よく読めなかった。
『これ欲しい人いますか? 5000円で売ります』と、インスタに投稿すると
『それ、中古でも5000円なんてものじゃないです。相場3万ですよ』『2万円でも良いので買いたいです』
すごい反響だった。あまりに沢山の人から連絡が来て戸惑っていると、友人のユリカからラインが届いていた。
『投稿にあったコインケースなんだけど、購入できないかな?』
彼女は高校の同級生で、彼をバーベキューで紹介してくれたのも彼女だ。
『うん、いいよ。お金はいらないから』
今すぐうちに取りに来るというユリカを待っていると、すぐにインターフォンが鳴った。
「ユリカ!久しぶりだね!上がって上がって!少し話そうよ!」
「久しぶり。ごめん、予定があって急いでいるの」
と話し、すぐに出て行った。どうしてそこまでして、このコインケースが必要なのだろうか。何かが喉の奥に引っかかったが、言えなかった。
*
家から徒歩三分のコンビニは、私のスーパーのような存在だった。缶チューハイでも買おうと店内に入ると、見覚えのある彼がいた。彼は健康食品の棚でにらめっこしているかと思うと、健康食品のクラッカーを一つ手に取り会計をして出て行った。
彼は外に出ると、私の家とは逆の方向に歩いていく。歩きスマホをしている彼は、後ろを歩く私に気付きもしない。
彼は駅に向かい改札を通り抜けると東京方面の電車に乗りこみ、快速で二駅通り越し、次の駅で降りた。私も後を追いかける。
改札を抜け構外に出ると、また数分歩き、とあるマンションに入っていった。綺麗なマンション。私のアパートとは比べ物にならない。奇跡的にオートロックでは無く、私も入ることが出来た。彼はエレベーターに乗り、二階で降りる。私は階段を急いで駆け上がった。
後を付けていくと、202号室に入っていくところが見えた。鍵が開いていたためそっと中に入ると、二人の男女の声が私の鼓膜を震わせた。
「どういうことよ! あんた、あの女のとこにいたんでしょ?」
「えっ……なんで知って……?」
「このコインケース、なに?私があげた名前入りのものなのに、なんであの女が持ってるわけ?」
「ごめん……」
「妊娠中なのに、なんでそんな事するの?もう来月結婚するって時に。あんたが子供が欲しいって言ったから作ったんだよ!?」
「ごめん。怒らないでよ。ユリカが大切なんだ。あいつは遊びだから。ほら、妊婦さんに良いと思ってクラッカー買ってきたから食べてよ」
「明日バーベキューに行くのに、本当に最低。気分悪いわ」
「あははっ、そうだったんだ。あの二人…だからユリカは…」
二人の会話を聞いた私の中から、先程弾けたばかりの黒い物が飛び出していくことを感じた。必死に気持ちを落ち着けようとしても私の頭の中は三人のこ今までのは何だったの妊娠って何結婚って何遊びって何私が遊ばれていたって事てかユリカが本命だったって事知らなかったなんで言ってくれなかったのユリカも彼も皆知ってたのかな私を騙してたのかなそもそも眼中にないって感じなのそれは知ってたけどでもむかつくなあのえっちは何でもすきだすきだけどむかつくすきだむかつくすきだむかつくすきだむかつく消えちゃえばいいのにあんたら二人もお腹の子供もぜんぶぜんぶぜんぶなんなんなんなんなんなん消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ
*
ふと玄関にバーベキューコンロと炭が置いてあるのが見えた。着火するために新聞紙も硬く絞られて置いてある。そうだ。私はバーベキューコンロに炭と新聞紙を並べ、タバコ用に持っていたライターで火をつけた。
少しずつ火は新聞紙に着き、炭にも移り始める。
この寒空の下で窓を開ける猛者はいない。
このまま静かに燃え続ければ、きっと
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