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ブログ企画【繋】第63回「節目」

毎月1日に全国各地のメンバーがひとつのテーマで文章を書くブログ企画【繋】。
今月のテーマ発案者は、鈴木NG秀典(すずきんぐ)さん

私事ですが、今回の記事の11/1、私の誕生日でありまして、、また、今年はほかにも私にとって特別に意味のある節目の年でございまして、、
人生において、幼き日より、年老いるまで、きっとこの先もずっと、「節目」というのが誰しもあるんちゃうかな?って思うわけでして。
あぁ、あの日が、俺にとってのターニングポイントだったなぁー(シミジミ)とか、あの人に、あの言葉に出会っていなかったら今頃のあたしゃ路頭に迷っていたよ(←ちびまる子ちゃん風に)みたいな、、
色々考えましたが、今回のお題を「節目」とします。


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スイスの精神科医であったユング(Jung,C.G)が創始した分析心理学(ユング心理学)の中に、「布置(constellation)」という考え方がある。
これはもともとは星座を意味し、無関係の星同士があたかもひとつのまとまりを持った星座に見えるように、ひとつひとつの事象や状況がそれだけでは何の関係もないようであっても、あるときにそれらがひとつのまとまりとして意味が内包されて見えてくることをいう。


なぜ最初にこんなことを取り上げたかというと、それはわたしが今、大学院入試のために心理学の勉強をしているからである。言うなれば、今のわたしの身分は院浪生だ。

正直、まあ辛い。
勉強がというより、自分の現在地を絶えず意識せざるを得ないことや、先の見えない不安がひりひりと日々を圧迫してくる。

「学校」という場所に属していたこれまでは、なんとなくそこに立っていてもやるべきことやイベントが向こうから押し寄せてきて、それを適度にこなしていけば周りと足並みを揃えることができた。
だから、今自分がそれをやっている意味なんて、深く考えなくても生きていけた。

しかし、自ら選んだ浪人生活は、自分と深く深く向き合わざるを得ない時期でもあった。

周りが社会へ出て行く中、新しい環境で歯を食いしばって頑張る中、経験と実績を積み重ねてステップアップしていく中、彼らの背中を眺めながら内省する。

「わたしは本当にこれでいいのかな?」
「今やってること、これで合ってる?」
「選んだ道はこっちでよかったのだろうか?」

けれど、その問いに答えることができるのは、ほかの誰でもない未来のわたしだけなのだろう。



これまで、「節目」というものをあまり意識してこなかったように思う。


中学生の頃から書き続けている日記の中を探してもその言葉は見当たらないし、「節目」という言葉で記憶に折り目をつけたことって、そういえば全然ない。

いや、外から見れば、わたしの23年間にも数々の「節目」なるものは存在していただろう。
弟や妹が生まれた日、今住んでいる家に引っ越した日、学校の入学式や卒業式、誰かと付き合った日と別れた日、毎年訪れる誕生日、そういえば成人式だって20歳という「節目」のお祝いだったはずだ。

しかし、興味深いことに、たとえばわたしの日記帳の中の中学の卒業式の日と高校の卒業式の日のページは真っ白だ。

あれだけ日常を書き溜める変態であることを公言しておいて、卒業式の日のことは書かないのかよ!と思うだろう。わたしもそう思う。

その証拠に、今は気分が乗らないけれど後日書くだろう(というか書け)と思って、十数ものページを空けた。
けれど、その不自然な空白のページは埋まることのないまま、束の間の春休みを過ごし、高校や大学での新生活の様子がその後に続いている。

書きたいことがなかったわけでは決してない。3年間を全力で駆け抜けた今思うことだって、これは絶対に文字にして永久保存しておこうと強く思った卒業式当日の出来事だってあった。

それなのに、書けなかった。書かなかった。
それがどうしてだったのか、わたしはいまだにわからないでいる。



最近、友だちが好みの男性像をこれまた解像度高く解説してくれたとき、

「誰かに話しかけられてちょっと談笑してそれぞれの持ち場に戻るときってあるでしょ?そのときすぐに真顔に戻るんじゃなくて、ひとりになった後もしばらく残る笑顔の余韻が強めの人ってなんなのあれズルくない?イメージは高橋一生!」

と話していた。

その話を聞いてからというものの、それまで星野源と同ジャンルくらいの認識(両者のファンの方々ごめんなさい)だった「高橋一生」がテレビの中で笑うたびに手を止め、コンビニの雑誌コーナーでは視界の端に彼が入り込み、何の前情報もなく彼が声の出演をしているというだけで見始めたNHKの深夜の海外ドラマは、わたしの毎週日曜日の楽しみになった。


こういう、それまでどこかで目にしても耳にしてもさほど気に留めずに流してきたのに、ある何らかの些細なきっかけによって、その言葉なり出来事なり人物なりが自分の中にプロットされて、それらがある日突然まとまりを帯びて浮き上がってくる、みたいなことが最近ちらほら起こる。

あの点とその点がつながってこのことについて理解できるようになった、あのときはどうしてあんなことが起きたのかわからなかったけれど今起きていることと照らし合わせると説明できるといったような、


「あーーー!そういうことだったのね!」


と膝を打つあの瞬間。思わず鳥肌が立つ。




ここまでいろいろな話を点在させながらだらだらと引っ張ってきて、さてどう結ぶのかというと、話は冒頭へ戻る。

ユングの「布置(constellation)」という考え方と今回の「節目」というテーマがつながったからこそ、この文章は生まれたのだ。


無関係の星同士があたかもひとつのまとまりを持った星座に見えるように、ひとつひとつの事象や状況がそれだけでは何の関係もないようであっても、あるときにそれらがひとつのまとまりとして意味が内包されて見えてくる。


同じように、卒業式の日の空白のページもいつかどこかの星とつながって、書けなかった理由がわかる日が来るのかもしれない。それがまた違う星とつながって、そこから思いがけない新たな星座が生まれるかもしれない。

そして、今の院浪生としての日々の苦しみも、わたしの中でいずれ重要な意味を持つのだろうとぼんやり思っている。

正直、なぜ今の道を選んだのかと聞かれても、今のわたしはそれらしい美しい理由を答えることはできるが、もっと深いところから湧き上がってくるような解にはまだたどり着いていない。
でも、それでも、ここへ行かなくてはならない何かに突き動かされて今があることだけは確かな感覚としてある。それと何かがつながって自分がした選択の意味を確度の高い言葉にできるのは、もう少し先な気がしている。


そう思うと、今自分が体験している出来事に無駄なものなどひとつもない。
喜びも怒りも苦しみも悲しみも、誰かの些細な一言も、そのひとつひとつが後に何らかの意味を持つ可能性を秘めながら、自分の中にじっと息づいている。
そして同時に、自分が放った何気ない言葉や、自分という存在、生き方もまた誰かの中に刻まれている。


星と星がつながってひとつの星座になるように、点と点がつながって線になる、その線こそ「節目」と呼ぶものの正体なのかもしれない。

わたしたちは、後に「節目」となるような点をいくつも打ちながら、いつか訪れる「節目」を迎え入れる準備をしている。




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さて、ほかのメンバーの方々は、その人生の中でどのような「節目」を迎えてきたのでしょうか。
きっと、それぞれの方の文章を読ませていただくことも、自分の中に新たな点を打つことなのだろうなと思いながら、最後にお祝いの言葉を添えて締めくくります。

鈴木NG秀典(すずきんぐ)さん、お誕生日おめでとうございます!


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(2015年夏、七里ヶ浜にて)

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