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映画 ベルサイユのばら 原作リスペクトが半端なかった
原作に忠実なアニメ化
今作は2時間に詰め込んでカットしまくっているものの、「漫画 ベルサイユのばら」のアニメ化であると胸を張って言える仕上がりである。
なぜか、それは「70年代アニメ(以下旧アニメ)」と違い、キャラクターのあり方を改変せずに大切にアニメ化したからだ。
以下、旧アニメと原作で乖離が激しい(というか別物)アンドレの死、オスカルの死の描写を比較して感想を述べていきたい。ネタバレ注意。
※2回目を見たところ、記憶違いもあったので少々修正しました(2/8)
アンドレの死、オスカルの死
ベルサイユのばら(漫画)でよく言われているのが、少女漫画、しかもあの時代に死の無常観、残酷さから逃げず容赦なく描写しているという点。
天然痘のルイ15世の死に様や、アランの妹ディアンヌの遺体はリアルすぎて、いわゆる『みんなのトラウマ』ですらある。
どう生きて、どう死ぬか。
作品の根幹テーマにつながるからこそ、若き日の池田理代子は手を抜かなかったのだろうと思っている。
今回の新作映画が「原作に忠実なアニメ化」を命題としているのだから、当然のごとく方向性はそのままであった。「物語の主人公たちは死にましたが、それでも明日も日が昇り、世界は回ります」という容赦ない事実を突きつけてくるキツさがあった。これは原作の容赦のなさと同じものだ、と私は感じた。
7/13 テュイルリー宮の戦闘
アンドレが撃たれて落馬した時、手足が不自然な方向に投げ出されていて、受け身も取れなかったことが一目でわかった。多量の血が流れ血溜まりができている。
そのリアルさに映画館で悲鳴をあげそうになった。一発受けただけだけれども、明らかに致命傷だとわかってしまう描写だった。
オスカルが「アンドレ!」と悲鳴を上げるのも無理はない、見ている側も悲鳴を上げそうだったのだから。そう思わせる迫力があった。駆け寄るオスカルを女々しいと罵る者を出させないほどに。
オスカルとアランがアンドレを担いで運ぶ。血が気道を塞いだのか、苦しそうに吐血。アンドレは「指揮を続けろ…な…ぜ…現場を…離れ…る」と言う。原作より縮めているが、このセリフがあって良かった。生粋の軍人というわけではないアンドレがオスカルを窘める。激情家で口が悪く突っ走るところのあるオスカルを、長年影で「落ち着け」と助言してきたアンドレとのやりとり。おそらく2人の間に何度も繰り返されてきたやりとり。(「ユラン伍長、後の指揮を任せる」のセリフが省かれたが、敵側が押され後退したので、まあ抜けても大丈夫そうかな、という感じにされていたのは良かった)。
オスカルは当然従わず「しゃべるなっ!」と言いながら彼を運ぶ。アランと近くの林に運んだところで止血しようとしたが、その時には既に意識が混濁していた。手が止まるが、またそのカットでじわりと血が広がっていく。歌こそ歌わなかったが原作通りだ。撃たれた直後にはオスカルに理性的な言葉を投げていたのに、たった数十秒で、もう会話が成立しなくなってしまう残酷さ。
「お前の鼻、お前の唇…」とアンドレが手でたどるところで、オスカルがようやく『アンドレは失明している』とわかり、「なぜついてきた!いつからだ…この、ばかやろう!」とって飛びかかりそうになるのも、アランに止められるのも原作と同じ。
ただここから後、水を欲しがりオスカルが立ち去る流れがカットされている(たぶん時代考証的に町中でガラスのコップ&すぐに飲料水調達は厳しかったのだと思う)。
アンドレは混濁する意識の中、目の前にいるはずの、見えないはずのオスカルを見て、あまりにも有名な「ブロンドの髪 ひるがえし」の一節を呟いて、静かに息を引きとった。水を欲することもなく、オスカルの眼の前で、ほんとうに静かに。
ベルナールはおらずシトワイヤンの名誉は与えられない。私を撃ってくれ!と錯乱するオスカルもいない。夏の美しい木もれ日の中、オスカルをかばって、オスカルのことだけを想って、あっという間に逝ってしまった。オスカルが息を引き取ったアンドレの顔をまさに「愛しい人にする」ように撫で回してから、頭を抱きしめ「私をひとりにしないでくれ!」と覆いかぶさって絶叫する様子は見ていて辛かった。だがオスカルのアンドレの名を呼ぶ絶叫も、戦闘の喧騒にかき消されている。無情である。
その後はあっさりと上空からの俯瞰になり、状況説明のナレーションに移行。歴史は止まらず進んでいくのだと観客に示す。アンドレを喪った観客を置き去りに。
そして原作でもあるあの名ナレーションが入る。
1789年7月14日
世界史上かくれもない不滅の7月14日は前日と同様に明けた
快晴 気温 やや高し
衛兵隊の誰が死のうが、アンドレがいなくなろうが世界は終わらない。次の日がやってくる。前日と同じように。都合よく雨なんか降らない。朝がやってきた。
7月14日 バスティーユ襲撃
オスカルの軍服が血に汚れている。アンドレを抱きしめたから付いたのであろう血の跡。原作にはないアレンジで、これは見事だった。色のついたアニメだからこそ強烈に印象に残る。愛した男の血のついた軍服を身に纏う姿。
オスカルは冷静にバスティーユへ向かうことを説明するが、出発に際し「行くぞ、アンドレ!準備はいいか」といつも通りに後ろに声をかけてしまう。もういないのだ、という現実を突きつけられたオスカルが、顔を覆い号泣するが、オスカルを急かすもの、茶化すものもなく、かといって慰めるものもなく(それができるアンドレはもういない)、オスカルは自分で精神状態を立て直し、進撃を宣言する。ここで残念なのが「いいえ、いいえ隊長」と首を振るアランがなかったこと。
そしてバスティーユ。彼女の指揮は的確で、具体的だ。誰に何をして欲しくて、どうしたいのか的確に伝えている。その手腕によりあっというまにバスティーユが危うくなるのが、動画であるアニメならではの説得力だった。今の世で見ることができて本当にありがたい。
指揮官を狙うのは常道。初撃を食らった後射撃手を鬼気迫る表情で睨み、相手が怯え弾の雨が降る。アランに抱きかかえられ膝をつくが、気丈に「射撃を…つづけて…あと一息で…バスティーユは…落ちる…」と途絶え途絶えに指示し、兵士たちは持ち場に戻る。今回のアニメはここまでやってくれた。戦場において余所見をするようなこともなく、尻餅をつくような姿勢にならず、指揮をし続け、軍人として、隊長として最後までそこにいた。「この身を剣に捧げ砲弾に捧げ、軍神マルスの子として生きましょう」と宣言した通りの生き様を描いてくれた。
そしてアランに運ばれるわけだが、モノローグを全部やると長くなりすぎる。今回のアニメはその取捨選択が見事だった。「私のアンドレ、アンドレ、お前は苦しくはなかったか?死は安らかにやってきたか?私が臆病者にならぬよう、手を貸してくれ」と途絶え途絶えに呟くのだ(カットした「私のアンドレ」発言をここに入れ込んできた制作陣には頭が下がる)。
原作再現にすべてを捧げる今回のアニメ、当然オスカルの臨終にも容赦がない。今際の苦しみ「おろしてくれ、頼む、もう…」も省略しない。手当ができるところまで運びたいアランに対して、「アンドレが…まっているのだよ…」と、もはや助からないとアランと観客に突きつけるシビアさ。沢城みゆきの演技が真に迫っていて、そりゃアランも泣くわ、というキツさ。ただし出番が省略されてしまったためロザリーはいない。個人的にはやはり「アンドレ、アンドレ、お願いよ!オスカル様をオスカル様を連れて行かないで、お願い!」と取り乱してほしかった。ロザリーの声は読者の声でもあったから、そこは残念。
オスカルは自分の人生に悔いのないことを告白する。ここも長い原作モノローグをうまく取捨選択している。安らかな心境であること。自己の真実に従い生きることができたことを、途絶え途絶えに呟くのだ。そして、アランは白旗が上がっていることに気づく。横たえていたオスカルの上半身を起こし、白旗を彼女に見せる。オスカルは涙を浮かべて、「フランス…ばんざ…い」と祖国の未来、祖国の栄光を讃えて息を引き取る。どこか満足気ですらある、安らかな死に顔であった。
混乱する街角で息を引き取ったオスカルに部下たちが駆け寄るが、アランは静かに彼女を横たえる。隊長、と泣く彼らの声は、バスティーユ陥落に歓喜の声を上げる民衆にかき消されていく。民衆の誰も彼らを見ない。衛兵隊が駆けつけたときは誰もが見つめて称えた英雄なのに。指揮をしていた彼女が息を引き取っても、勝利に熱狂していて気付かない。アンドレの時と同じように、空撮のような空からの画面となる。
そして、死後の世界か、単なるイメージか。それはわからないが、光と影がまた一つになる二人のの再会を挟み、エンドロールとなる。
物語の主役であるオスカルが死んでも世界は回る。しかも、歴史は彼女が望んではいなかったであろう方向に突き進んでいく。そのことを、エンドロールは言葉なく語るのである。
どう生きて、どう死ぬか
今作アニメで絞り込んだであろうテーマ「どう生きてどう死ぬか」。
アンドレはわかりやすいだろう。「この命尽きるまで、守り抜く。」のキャッチフレーズ通り、命をかけてオスカルを守った。目のハンディを抜きにしても、そもそも両目が見えていた頃から剣でも勝てていなかったので、生粋の軍人であるオスカルに劣る武力しか持たない。本人も「こんな何もない俺に」と自覚もある。しかし、「おれはいつもお前のそばにいる」と若き日に言ったように、オスカルの影となって寄り添い続けた。それが彼の人生で、そうあろうと生きてきたのだから。オスカルがアンドレに気付いて報われる形になったのは、その結果に過ぎない。少なくとも、毒ワイン以降の彼は、報われるために生きたわけではなかった。
旧アニメでは、革命へ導いたのはどちらかというとアンドレ主導で、その割に理由もない流れ弾で死んでしまう。理由もなく、だ。むしろこの負傷(心臓貫かれているのになんで生きてるのだろう)のせいでオスカルが戦闘しているので、危険に晒してしまっている。ま、守れてない…。どちらかというと、ようやく長年の思いが遂げられ結ばれ、すべてはこれからであったはずなのに、理由もなく奪われる、という男の悲劇として描かれているように思える。
さてオスカルである。「進め、情熱の命ずるままに」。元ネタは送り出す父レニエのモノローグだ。
旧アニメのオスカルは「愛する人に付き従い革命へと向かった女性」だった。妻になったから夫に従うとも言い出したが、結局のところ指揮能力を持つのは彼女なので、隊員に認められながら隊長の立場にあり続けた。アンドレを喪った後はもう無理だと指揮をアランに託してしまおうとさえする。疲れ果て悲鳴を上げる心のまま戦場に立つが、空に舞う鳥を見上げた一瞬に、弾の雨を浴びせられ蹲る。そしてバスティーユが落ちるところも見ず、アデュウ、とこの世の何もかもに別れを告げアンドレを追いかけていった。
瀕死の白鳥というバレエをご存じだろうか。湖に浮かぶ一羽の傷ついた白鳥が必死にもがき、やがて力尽きるまでを踊る作品である。旧アニメのオスカルは「ようやく休めるのだ」と視聴者に思わせるような、儚い最期だった。
しかし今アニメのオスカルは原作のオスカルである。彼女は、それまでの人生を踏みにじる「貴族女性として生きる=確実に生き残ることができる」選択肢を提示され怒った。かつて恋心を隠し続けなければならなかった苦しみを思い出しながら、自分の人生は何だったのかと悩んだのだ。
そして毒ワイン事件を経て、彼女はアンドレの思いの深さとその危うさを知り、自分が「いつも共にいて当たり前だったアンドレ」と、この先どうありたいかを見つめ直した。
そうやって、自分で自分の人生を定めたのである。
「生涯を武官として、軍神マルスの子として生きましょう」。
自分はこのまま女の身でありながら、軍人として生きる。この先命を落とすことになろうとも、と。
それは「自分がいなければ生きていけないアンドレを不幸にしたくない、アンドレが不幸なら己もまた不幸だと気づいた」から、だけではない。
かつて手に入れられなかったものを、取りに戻る、手に入れようとする選択肢を選ばなかった。苦しみの中でもまっすぐに生きると決めたのである。
だからこそ、オスカルは7月13日で折れなかった。7月14日も足を止めなかった。アンドレという己の半身をもぎ取られても、バスティーユという戦場に立ち、すべきと定めたことをやり通した。
一人の人間として生き抜いた誇りを胸に、幸福だと言って旅立っていた彼女は、決して哀れな儚い佳人ではない。眩しいほどに輝いた、一人の人間であった。
全力で悔いなく生き、あらゆるものから自由になった二人が、再会し、ただ抱きしめ合う場面には涙を禁じ得なかった。それが許されていいはずだ、当然だろう、と思わずにはいられないからである。
というわけで
今作は三大悪女もロザリーも一瞬程度(ジャンヌに至っては完全抹消)しか出てこないほどの大胆なエピソードの取捨選択をしたのにも関わらず、40話やった旧アニメよりもはるかに原作に忠実であった。
制作陣が、キャラクターの生き様を蔑ろにせず、原作で描かれたことを再現しようと、キャラクターのあり方どころか死に様までもきっちりやってくれたからである。(原作を叩き台として、自分のやりたいこと、自分の描きたいことに引き寄せて改変するやりかたは、昭和〜平成あたりが全盛で、今ではあまり見なくなったが、全くないわけではない)
嘘だ、とか、X(旧Twitter)やYouTubeで悪い評判を見た、と迷う未視聴のあなた、原作がお好きなら是非見てほしい。
原作への愛を、リスペクトを、再現にかける情熱を、私は受け取った。
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