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世界観の重要性

序章

今の時代「知識」はいくらでも手に入る。

仮に分からないことがあっても、Googleに聞けば一発だ。

逆に言うと「知識の価値」はどんどん目減りし「ゼロ」に近づいていっている。

これから求められるのは「知識」ではなく「世界観」。

世界観とは「この世界をどう見るか」という、個々が持つ「フィルター」あるいは「認識」のこと。

一時期「ありのまま」という言葉が流行したが、この世界を「ありのまま」に見ている者は誰一人としていない。

誰もが無意識の「フィルター」を通してこの現実を捉えており、本稿ではそれを「世界観」と表したい。

世間とはこんなもの
人間とはこんなもの
人生とはこんなもの

誰もがそうした「自分なりのフィルター」を通してこの世界を捉えており、それが各々の現実を創っていると言えるだろう。

「世界観」が人生を形創る。

思想家のウィルバーは著書『インテグラル心理学』の中で、次のように述べている。

基本となる分析軸は、肌の色でもなく、経済的な階級でもなく、その人がどんなタイプの世界観をもっているかということである。
(省略)
「焦点となるのは、その人がどのタイプに属するかではなく、その人がどのタイプを表現しているかである」
こうした見方をとることで、肌の色は問題ではなくなり、社会的な緊張を生み出している本当の真相要因(発達論的な価値観や世界観)へと焦点が当たるようになる。
そしてそれこそ、南アフリカ共和国において、アパルトヘイト制度を解体するための一助となったアプローチなのである。

『インテグラル心理学』(ケン・ウィルバー著 日本能率マネジメントセンター)P134より引用

また、環境問題については、次のように述べている。

生態学的な危機の要因、すなわち、ガイア(地球生命圏)が抱えている主要な要因とは、大気の汚染でもなく、有害な廃棄物の投棄でもなく、オゾン層の破壊でもなく、あるいは他の類似した事柄でもない。
そうではなく、ガイアの主要な問題とは、十分に多くの人間が、後-慣習的で、世界中心的で、地球的な意識段階にまで発達していないことにある。
なぜなら、こうした段階に到達することで初めて、地球の共有財産を大切にする行動をしようと自然に感じるようになるからである。

『インテグラル心理学』(ケン・ウィルバー著 日本能率マネジメントセンター)P363より引用

ウィルバーが言及しているのは「世界観の重要性」に他ならない。

対立や争いは「意見の相違」によって起こるのではなく「世界観の相違」によって起こるもの。

「世界観」の発達した者同士であれば、仮に意見の相違が見られても、それが「対立」や「争い」には繋がらない。

そのため「世界観」は「精神性」に置き換えることも出来るだろう。

「世界観」は「精神性」と共に進化する。

これは何を意味するか?

「世界観」の著しく異なる者は、例え同じ日本人同士であってもいずれ「会話」が成立しなくなる。

「情報化社会」は良くも悪くも「世界観の差異化」を押し進める。

「知識」が重宝された時代は「右にならえ」で、為政者の提示する「世界観」を唯一無二のものとして、誰もが信じていただろう。

しかし今は「知識」はほとんどタダで得ることが出来、そうして手元に集めた知識をどのように評価し日常生活に活かしていくか、それが問われる時代である。

では「知識の評価」や「情報の解釈」は、何によって決まるだろう?

答えは「世界観」。

あらゆる情報の「評価」や「解釈」は、各々の「世界観」に拠っている。

情報が無数に飛び交う現代社会では、その「評価」や「解釈」も千差万別と言え、個々の「世界観」もバラエティーに富んだものとなる。

「コロナ禍」を例に出すと分かりやすい。

2020年に猖獗を極めた「コロナ禍」は、「マスク警察」に見られるようにコロナを危険視する者もいれば、「コロナなんてただのカゼ」と全く気にしない者もおり、さながら「世界観」の大きく割れた事例だろう。

コロナに関する知識や情報を、どのように評価し解釈し行動するか。

コロナに怯え危険視する者と、「ただのカゼ」としか思っていない者とでは、同じ日本人でもコミュニケーションを取るのは難しい。

これからは「コロナ」に限らず、あらゆる物事に対する「見方」や「認識」の違いによって、人々が無数の階層に振り分けられることになる。

すなわち「世界観」の相違により人間関係が整理されることになるが、これがいわゆるスピリチュアルの世界で言うところの「二極化」に当たるものだろう。

世界観は「バームクーヘン」や「年輪」のように、既存のレベルに新たな「見方」や「認識」が重なることで層状に進化を遂げるため、主に発達心理学の分野では何種類もの細かい「区分」が設けられている。

世界観を最初の段階から細かく見ると、本一冊分のボリュームになってしまうため、ここではざっくりと二種類に分けて論じたい。

すなわち「第一層」と「第二層」の意識について、以降で詳しく見ていこう。


1:第一層と第二層

「第一層」と「第二層」では、何がどう違うのか?

概要を示すと以下のようになるだろう。

【第一層】
他律的
「家族」に例えられる
「支配・服従」による二元性
褒めて伸ばす
お節介を焼く・心配する

【第二層】
自律的
「生命」に例えられる
「一即全・全即一」の一元観
他人に興味を示さない
良い意味での「諦め」と「達観」

順に細かく見ていこう。

「第一層」は基本的に「子どもの関係」を表しており、「第二層」は本当の意味で成熟した「大人のマインド」と言えるだろう。

「第一層」のベースにあるのは、次のような関係だ。

支配するものとされる者
指導する者とされる者
世話をする者とされる者
etc…

これらは総じて「支配・服従の関係」と言えるだろう。

「家族制度」も基本的に「第一層の意識」をベースに構成されている。

「子」は「親」の言うことを聞かねばならない。

「親」は「子」の「生殺与奪の権」を握っている。

仮に虐待を受けても子どもは耐えるしかなく、最悪の場合命を落とすような痛ましい事件も起きている。

「毒親」や「親ガチャ」という言葉も見られ、「人生の主導権」はまず以って自分自身の手には見られない。

全て「未熟なマインド」による「子どもの関係」と言えるだろう。

翻って「第二層」はどうか。

第二層の世界観は「生命」に例えられ、そこでは第一層で確認された「支配・服従」の関係は見られない。

「生命」は一つの「システム」であり、宇宙をはじめとするあらゆるシステムは「全体性」と「部分性」の両側面を持っている。

例えば「人間」は、一個の完結した人格を持つという意味において「全体性」を有するが、社会の中で義務や責任を負うという意味においては「部分」としての面も持つ。

「会社の歯車」という言葉もあるが、これは人間の「部分」としての側面に焦点を当てた比喩だろう。

また私は群馬県の出身だが、同県は一つの自治体として「全体性」を有しつつ、日本国という国家の一部として「部分」としての面も持っている。

「全体」でもあり「部分」でもある。

これが「システム」の本質だ。

しかし、どうだろう?

「全体でもあり部分でもある」のは理解できても、両者の機能は本来的に矛盾する。

全体→自律
部分→他律

「全体」は「自律」を志向し、「部分」は「他律」を志向するが、両者の関係は二律背反(ジレンマ)となっている。

あちらを立てれば、こちらが立たず。

この世界が本来的に不安定な要因は、ここに求められるだろう。

「全体/部分」で構成される物理次元のシステムは本来的に不安定で、この矛盾をいかに調整するかが物理次元における「永遠のテーマ」となっている。

「全体/部分の関係性」は「世界観」というテーマに沿って見ると、「権利」と「責任」に置き換えることが出来るだろう。

一個人として有する「権利」と、一市民として果たすべき「義務」は、本来的に矛盾する。

「権利」の主張と「義務」の完遂。

個人的な「願望」や「野心」と、社会からの「要請」と。

「やりたいこと」と「求められること」を、いかに調整しすり合わせるか。

先に挙げた「一即全・全即一」はここに由来し、「第二層」はあらゆる矛盾を調整し、すり合わせ、統合する。

「第一層」はそうはいかず、「矛盾」を「矛盾」のまま受け取れない。

何をすればいいですか
どうすればいいですか
あの人の言っている事は本当ですか
誰を信じればいいですか
etc…

「第一層」は基本的に、すぐに「答え」を求めたがる。

本来的に不安定で「矛盾」を前提とするこの世界は「グレーゾーン」に満ちている。

「白か黒か」ではない。

「白」から「黒」へわたる「グラデーション上」の、どの段階に位置するか。

「真っ白な人」も「真っ黒な人」も、この世界にはいないはず。

誰もが「グラデーション上」のどこかに位置し、それは時々の状況や立場によって常に揺れ動くものだろう。

「第二層」は完全な「自立」と「自律」を果たしているため、こうした「微調整」を自分自身で行える。

「第一層」と「第二層」を分ける壁は、ここにあると言えるだろう。

言わば「第二層」は、「分からないものを分からないままに出来る強さ」を持っている。

「宙ぶらりんの状態に耐える強さ」と言い換えてもいい。

「第一層」にはそれがない。

矛盾を受け止め、
自分で考え、
「こうではないか」と仮定を設け、
実際にやってみる。

こうした「実践」を自分自身で重ねない限り、「答え」など絶対に出てこない。

人に聞いているだけではいつまで経っても「自立」を果たせず、「第一層」のループの中で「支配・服従の関係」を一層強めるだけだろう。

「第一層」は「共依存」に拠っている。

答えを欲する者と、答えを提供したい者。

前者は矛盾を受け止め整理し、自分のなりの答えを導くだけのスキルがない。

一方で後者は、前者が自分を頼ることで、彼を配下に置いておける。

両者の「利害」は見事に一致しているのが分かるだろう。

現代社会は主に「第一層」の世界観で回っているため、こうした「共依存」のような関係性は至る所で見受けられる。

スピリチュアルの世界は、特にそれが顕著である。

目覚め
アセンション
ディスクロージャー
etc…

著名人が口にする「甘言」を聞くと、何となく分かったような気になるが、実際のところ自分自身では何もしない。

挙句の果てには、

いつになったら変わるのですか?
いつアセンションするのですか?
世界平和はいつやって来ますか?

「講師」や「先生」と呼ばれる人を「質問攻め」にするだけで、自分では何も考えない。

教える側も、そうした「カモ」を押さえておけばおくほど「ビジネス」としては儲かるため、第一層の「無限ループ」がここにおいて出来上がる。

いわゆる「スピ系」の中には「自分は目覚めた存在」として、スピリチュアルに疎い人を下に見るような向きもあるが、その実態はほとんどが「第一層」に留まっており、見るべきものは何もない。

社会全体として「第二層」まで到達している者は少数派のため、特にスピリチュアルに取り組む際は、その人が「何を言っているか」でははく「どんな世界観を持っているか」に着目せねばならない。

次章では「第二層」へと至る方法とその特徴について見ていこう。




2:第二層へと至るには

そもそも「世界観」が刷新されるのは、一体どんな時だろう?

それは既存の価値観や認識が、崩された時ではなかろうか。

これまでのやり方では通用しない
従来と同じ事をやっていたのではダメだろう

そうしたある種の危機意識に触発され「世界観」は磨かれる。

見方を変えると、どれだけ哲学書や啓発書を読んでも「実践」が伴わなければ、世界観は一向に磨かれない。

世界観の進化にとって何より一番大切なのは、「現場」に身を置くことだろう。

現場へ足を踏み込むと様々な不合理やイレギュラー、あるいは不測の事態が次々と襲い掛かってくる。

そこでいかに対応するか。

こちらの常識が通用しない人もいる。

既存の価値観や概念が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちる。

そうした迷いや混乱の中で踏ん張り続けると、次第に新たな地平が見えてくる。

渦中で揉まれカオスを経験している内は、自分が進歩・成長しているなど全くもって思えない。

しかし、どうだろう。

その混乱から一歩抜け出て後を振り向くと、確かにその中で「世界観」を新たにした自分を発見できるはず。

既存のやり方や考え方に「限界」を感じた時が、世界観の刷新が始まる合図である。

それは決して心地いいものではないだろう。

むしろ大きな「痛み」を伴う「試練」の場となるケースがほとんどだ。

自分の不甲斐なさや至らなさ、あるいは心の闇と向き合うことになるだろう。

そうすることで「レジリエンス」が磨かれる。

「レジリエンス」とは困難や危機に直面した際、それをしなやかに乗り越え回復する力、あるいは精神的な強さを指す。

これはまさに「分からないものを分からないままに出来る強さ」あるいは「宙ぶらりんの状態に耐える強さ」に他ならない。

「第二層」へ至るのに必要な忍耐力は「現場」の中で磨かれる。

また、そこでは自身の「使命」とも向き合うことになるだろう。

困難な経験を重ねていると「内なる自分」の声がする。

なぜ、自分はこれほど大変な思いまでして頑張っているのか
自分は何のために生きているのか
仮に今ここで亡くなったとして、後悔のない人生だったと言い切れるか

これらの「問い」は自分の「使命」へと直結する。

日頃抑えていた「本音」がえぐり出され、少しずつ「本来の自分」を取り戻す。

自分は何が好きだったのか
自分は何がしたかったのか
自分はこの世界にどう貢献できるのか

一即全
全即一

ここにおいて「全」と「個」が重なり合う。

自己の「願望」と社会からの「要請」が、自らの内で一致する。

「私」が本来の「私」である時、私は「社会」と調和する。

こうした一連の意識の進歩を、ソニーの元上席常務である天外伺朗氏は「実存的変容」と呼んでいる。

実存的変容が起こると「自分らしさ」がより前面に表れ、「自他の棲み分け」がより明確になってくる。

「アドラー心理学」でいうところの「課題の分離」に当たるだろう。

つまるところ、自分の課題は自分で解決するしかない。

誰かの手を借りたところで、それは根本的な解決には繋がらない。

実存的変容を遂げた者は、それを「アタマ」ではなく「身体」で理解しており、他者を心配したりお節介を焼いたりしなくなる。

人はそれぞれ別個の課題を持って生まれ、一人一人が自身の課題を乗り越える力を備えている。

逆に言うと、自身の力で乗り越えることの出来ない課題は、まず以ってやってこない。

山より大きなイノシシは出ない。

「第二層」へ至った者はそれを身に沁みて理解しており、だからこそ必要以上に他人に興味を示さない。

私は私、あなたはあなた。

第二層は良い意味で「ドライ」である。

『天繩文理論』を著した小山内洋子女史は、「愛情」は極めて地球的な概念であり「情」は「愛」に付いた「ゴミ」であると述べている。

宇宙的な愛(本来の愛)は氷のように冷たい。

人は誰もが最後は「一人」である。

例えば「受験」はどうだろう。

もちろん受験期間中は家族や教師、あるいは塾の講師等々、様々な人から支援を受けることになるだろう。

しかし、本番は誰であろうと「一人で」試験に臨まねばならず、そこでは回答を手助けしてくれる者はいない。

受験に限らず、一事が万事この世界はそのようにできている。

地球は「行動の星」と言われるように、自分の意志でアクションを起こし、その結果に対する責任を自分で引き受けるのがルールである。

誰もが「一人で」生まれ、そして「一人で」死んでいく。

そうした生きることの「厳しさ」を、第二層まで到達した者は「本当の意味で」知っている。

だからこそ、相手から求められない限り、必要以上に他者に関心を示さない。

人を「守ること」は出来ない。

「転ばぬ先の杖」で人を守ろうとすればするほど、他者の自由を制限し束縛することになってしまう。

それは「支配」や「コントロール」と同じで、まさに「第一層」の世界観と言えるだろう。

「第二層」の段階に到達して初めて、本当の意味で「大人」になる。

これから訪れる「高次精神文明」は「大人」の創り上げる社会である。

なお、先述の小山内女史によれば「大人」の反対は「子ども」ではなく、精神的に幼いという意味で「小人」というらしい。

「大人」は一人一人が「自分軸」をベースに、個々の理想や夢の実現に向け、日々を大切に生きている。

「自分軸」と「自分勝手」は似て非なるもので、本当の自分軸とは「人と人の間に立つ軸」のことを指している。

あなたと私の間に「見えない軸」が立ち、それを中心に円舞するようなイメージだ。

そこには少なからず「不確定要素」が介在する。

もしかすると相手は、自分の思うような行動を取らない場合もあるだろう。

それでも「自他の間に立つ軸」を中心に、間合いを計りリズムを合わせ、ひとつの「表現」を試みる。

「自分勝手」とは単に「エゴ」をぶつけるだけで、それはあくまで「一方通行の」幼稚な振る舞いと言えるだろう。

自他の間に横たわる「不確定要素」を受け入れるには「レジリエンス」が必須となる。

それがないと「恐怖」が先行し「権力」を笠に着てマウントするだけの「輩」となるが、それこそまさに従来の物質文明(男性社会)において、幾度となく繰り返されてきたパターンである。

Volatility:変動性
Uncertainty:不確実性
Complexity:複雑性
Ambiguity:曖昧性

「VUCAの時代」に必要とされる「柔軟性」や「融通性」は、一朝一夕には磨かれない。

「第一層」から「第二層」へ変容を遂げる過程で、現場に身を置き自身と向き合うことでしか、「人としての幅」は生まれない。

これから求められるのは「大人」と「大人」の「共創」だ。

「大人」とは何でも出来る「スーパーマン」のことではない。

自分には何が「可能」で、また何を「委ねる」べきであるか。

それをしっかりと「識別」できるのが、本当の意味での「大人」だろう。

先述の通り、宇宙をはじめとするあらゆるシステムは「全体性」と「部分性」の両側面を持っている。

「完全無欠」の存在を自任するのは「全体性」しか見ようとしない未熟な意識の表れであり、その意味で「絶対神」を崇める西洋由来の一神教は「子どもの戯れ」と言えるだろう。

「これからは日本の時代」と言われる由縁はここにある。

「大人」とは決して「完璧な存在」を意味しない。

「弱さ」や「痛み」を受け入れることで、ある種の「余白」が自分の中に生じ得る。

そうした「余白」は一定の幅で揺らいでおり、「均衡」と「カオス」の間を行きつ戻りつ振れることでしか、真の「創造」は成し得ない。

柔と剛
静と動
水と火
女性性と男性性

「第二層」は相反するものの一体化も象徴しており、そこには「論理」や「損得」とは一線を画する「深い人間性」がうかがえる。




参考文献
『インテグラル心理学』(ケン・ウィルバー著 日本能率協会マネジメントセンター)
『大転換の後 皇の時代』(小山内洋子著 コスモ21)

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