統合医療の意義 JCのリアル開催に際して思うこと
※JC(ジャングルカンファレンス)
統合医療という方法論の意味を考えてみたいと思う。現代正統医療と伝統代替医療の双方を取り込むことで、正統でないことからインチキだとか、はたまた唯一の正しい統合医療はこれだとか、一面的な判定がなされることが多い。
これは一方で、異質のものを取り込むことで、明らかに現実に対抗可能な、もしくは非常に有効な方法論を提供しているという面も無視できない。
異質のものだけが合わさって、結論は出るのか、正解が出なければ意味がないし机上の空論だ、という議論は、これまでも「ジャングルカンファレンス」の総論を語る中で幾度となく批判が展開された。しかし、「オープンダイアローグ」の概念が(海外発という形で)広がる中で、この批判が適切ではないことも次第に明らかになるであろう。
つまり現実世界での多元的なせめぎ合いの中で、何らかの方向性は決まっていく。プラグマティズムの真理観もこうした点を指摘している。カントが言う「物自体」を直接把握できないまでも、現実における現象・事象の衝突により、我々はその実態を垣間見ることぐらいはできる。
真実・真理といったものは、エビデンスとされる渇いた事実として取り出されるものではなく、こうしたダイナミックな過程により垣間見えるものではないかと思う。
知識の統合的な分野における発見なども同様であろう。統合医療的な領域としては、俗に西洋医学と東洋医学の架け橋的な概念といわれる「ファシア」が象徴的だろう。
かつては(専門家によっては)全く否定的に捉えられてきた「経絡」や「ツボ」という概念が、今、ファシア論としてその本態に肉迫している。完全なる一致といえるかはおいておいて(当然例外的な事象はあるわけなので)、ニアリ―イコールくらいには証拠がそろってきていると言えるのではないだろうか。
これこそは過去の専門家による絶え間ない努力、つまり異質なものを(正・反・合的に)統合しようとする成果である。現在、ファシアの賛同者であっても、一部の統合医療的要素に疑問を呈する方が散見されるが、部分的には理解できるものの、自らの立脚する概念の歴史を再考する視野の広さが必要ではあるまいか。
ここにもやはり確定的な真理という形ではなく、異分野の接触といういわば「邂逅」とも言える真理への接近が、そしてわずかに開陳される瞬間があるように思えてならない。
異質なるものの接触、そしてその前提として現状の正統として展開される「現象」への懐疑、昨今の世相を反映してあらためて「物事を深く考える」ということを考えさせられる。現状の「現象」を、いわば「代替」的にひっくり返すまではしないものの、別の可能性を懐中に秘めることで、我々は新たな観測点を得ることができる。それこそが「統合医療」という概念が我々に与えてくれるものであると感じている。
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コロナ禍の様々な影響で、ジャングルカンファレンスのオンライン開催も久しかったのですが、明日はいよいよリアルな開催との「ハイブリッド」です。
かつては当協会も支部を積極的に形成してスカイプでの接続を目指していましたが、それも今や「当たり前」化しています。明らかにこの面では進展したと言っていいでしょう。オンラインでの接続の賛成・反対で議論していた数年前を思うと、昔日の出来事のようです。反対勢力も今や存在しえない社会状況です。何が正しいかは議論ではなく、こうした社会的な時の流れの中で変容し、ごく自然に受容されていくことを痛感します。現在の世相も同様なのかもしれません。
こうした中でも「肌感覚」というような身体感覚こそが、真なる世界への小窓のように感じています。そこに統合医療の意義をあわせて考察してみました。