わからないから人生は面白い。
「今日の宿題は何?早くやっちゃいなさいよ」
「食べたらすぐ歯を磨く!虫歯になりたくなかったらすぐ磨きなさい!」
この1月で満10歳になる私の息子は、母親である私にいつもガミガミと口うるさく言われ続けている。
という事は、私も母業10年目なわけで。
私は10代後半から精神の病を患い、今、現在も通院中だ。
主治医からは寛解を告げられている。
20代の時、離婚を経験した。
もう自分は絶対結婚なんてしないし、ましてや子供なんて自分が子供みたいなんだし、そんな未来を創造すらしていなかった。
お子様の自分がどうやって未来ある子供を育てることができるのか?
精神の病を抱えている私が、まともな人間を育てられるわけがない。
そんなふうにも思った。
実際私には母がいない。学生時代、両親も離婚して母は家を出て行った。
だから私にはお手本となる人物がいないのだ。
小さい時から、友達とその母親との関係を目の当たりにしてきた。
一緒にお菓子を焼く姿、買い物に行く姿…。
私にはそれがなかった。
だから当然、夢見ることもなかった。
20代の後半に縁した人がおり、再婚することになった。結婚なんてしないと言っていた自分がおかしくなった。
その人は病も離婚も丸ごと受け止めてくれた。
変わってるな、そう思った。
2人で住んだマンションには時折廊下ですれ違う同世代の女性がいた。彼女が家に遊びに来るようになり、深い会話をするうちに彼女が不妊治療をして、それが功を奏し、まもなく出産すると言う話になった。
そして私にもその病院に行くよう強く勧めてくれた。
最初は行く気がさらさらなかった。
世間一般で聞く不妊治療は、お金がかかる、痛い思いをすると言うマイナスイメージしかなかったから。
でも、夫は一度電話するだけしてみたら?と言う。
一度だけなら、といやいや電話したのは、すべての行動のスタートラインとなった。
それからは、検査の日々。
まず、私は重複子宮と言って子宮が2つある奇形を持っていた。それプラス精神疾患。
彼女が通った不妊治療、専門のお医者さんにデータを見ながらこう言われた。「あなたはこのまま何もしなければ、5年後も子供はいないでしょう。」
なんとなくわかっていたけれど、はっきり言葉にされると、あーそうか自分は子供ができない人生なんだなと逆に肚がくくれた。
私の本気度を試すように先生がいろんな質問をしてきたが、何一つ答えられず、あなた何しに来たんですか?と先生に怒られる始末だった。
5年後もいるかいないかわからない。そんな未来のために、私と夫は寒い2月の始発電車に乗った。
これから定期的に病院に通うことになったのだ。
夫は仕事が休みの時は必ずついてきてくれた。
都会の一頭地にある、ビルの中にある病院。
1番に診て欲しくて、いつも近くのカフェで朝ごはんを食べて時間をつぶした。
試せるものは何でも試した。
冷えが大敵と聞けば、シルクの靴下を何枚も重ね履きしたり、白湯を欠かさず飲んだり。
サプリメントも飲み漢方も飲んだ。
近くの鍼灸院に定期的に通った。
出不精で運動嫌いだった私がウォーキングしたり体操教室も通った。
食事も色々調べて体があたたまる食材も積極的に摂った。
人工受精も2回終わり、先生が言った。
「体外受精を飛ばして顕微受精にしましょうか」もうお金もだいぶ払っている。痛みも何度も味わっている。だからもう恐れる事はなかった。
ここまで来たら進むのみ。そう思った。
そうして望んだ顕微受精がうまくいき、培養室で初めて見たタマゴ(受精卵)をしっかり目に焼きつけた。絶対この綺麗な命を忘れない。そう思った。
それからも、難局は続いた。
坐骨神経症になったり、ことあるごとに私は弱音を吐いた。
夫も散々責めた。
十月十日、私は常に子供といた。
ずっとお腹の中に居たかったのか、40週と5日目に帝王切開で息子は生まれた。それが2015年1月29日の出来事だった。
まさに想像していなかった未来がこの瞬間から始まった。
生まれた息子は肺炎と吸引胎便症候群になって、お腹から出た瞬間すぐ
ICUに運ばれた。
怖さと喜びでわんわん大泣きした私も先に退院することになり、それから毎日バスで息子を見に病院に通った。
余談だが、息子が1歳までにこの病院に2回入院している。
子供ってこんなにも弱く脆く、守っていかなければいけない存在なんだと身に沁みて感じた。
誕生日を迎えて、いくつになっても、息子には手をやかされる。
どうしていいのかわからず、こちらも何度泣いたことか。
10年経った今、現在も私は子育てに悩んでいる。
けれど、20代の時想像していなかった、素晴らしい未来が今おくれいると言うことに最大に感謝しなければいけない。
あの時の自分に。
支えてくれた周りの人に。
そして、生まれてきてくれた息子に。
#想像していなかった未来