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量子で医薬品をつくる

素粒子のミューオンが宇宙線の中に発見されたのは1937年のことである。その質量が湯川博士の予言した中間子と同じくらいだったため、最初は中間子の発見かと騒がれた。中間子は強い相互作用を荷う粒子だが、ミューオンは相互作用が弱く物質への透過力が強いのである。ミューオンは1平方センチあたり毎分1個くらいの頻度で地球の表面へ降り注いでおり、もちろん、人間の身体を突き抜けているが、透過力が高いため何も感じないだろう。ミューオンは重い電子のような粒子で、電子と性質が似ている。電子が1897年に発見されてから、今日ではエレクトロニクスとして応用されているが、ミューオンは発見から80年が経ってもほとんど人の役に立っていなかった。
役に立つとすれば、素粒子実験の検出器の動作チェックをするのに宇宙線ミューオンが使われるくらいだった。

しかし、最近では、ミューオンの物質への透過力が高いことを利用して、宇宙から降りそそぐミューオンでピラミッドや火山を透視することができるようになっている。さらに、原子炉や溶鉱炉の中の様子を見ることもできるようになってきた。今、ミューオンは脚光を浴びている。遅れてきたヒーローだ。次は医薬品への展開も期待され始めている。

私が米国シカゴ近郊にあるフェルミ国立加速器研究所(フェルミラボ)に滞在していた頃、2年に1度、世界各地で開催される素粒子物理の国際会議であるレプトン・フォトン国際会議がフェルミラボで開催された。フェルミラボは広大な敷地面積があり、研究所内の宿泊施設に滞在していたが、会議に参加するため会場まで車で行く必要があった。車を走らせていると、国際会議に参加しにきたと思われる、ジェントルマンな風貌の老人が道路を横切ろうとしていた。風貌はジェントルマンだが、足元は覚束ない。危うく老人をひきそうなところ、間一髪で急ブレーキをかけることができた。その老人は車の前をトボトボと歩いて道路を渡ることができたが、危ない老人だなーと思って睨みつけて見ると、なんと南部陽一郎博士ではないか。後に、ノーベル物理学賞を受賞することになる南部博士を間近で見た最初で最期であった。私のブレーキのタイミングがもう少し遅ければノーベル賞の受賞はなかったかもしれない。ノーベル賞は存命中の人にしか授与できないからだ。

南部博士は素粒子物理学に多大なる貢献をされたが、著書「クォーク」の中でミューオンについて興味深いことを述べている。

「ミューオンの発見は素粒子に対する従来の観念をがらりと変えたという点で非常に大きな象徴的意義を持っている。」

『クォーク』 (ブルーバックス)講談社; 第2版 (1998/2/20)

ノーベル物理学の受賞者からも誉れ高きミューオンだが、どのようにして医薬品への応用が可能なのだろうか?

骨や心臓や脳などを調べる核医学検査は、患者への負担が少なく、安全な診断法として普及している。日本では年間100万件の核医学検査が実施されているが、核医学検査に使われる放射性医薬の原料を100%海外からの輸入に依存している。医療診断用核種のほとんどは、カナダのチョークリバー原子炉からの供給に頼っていた。2011年3月の東日本大震災における福島の原子力発電所事故により、世界的な脱原発が加速され、カナダの原子炉は2018年に停止した。がん診断などの核医学検査が危機に瀕している。これを解決するかもしれないのが、素粒子のミューオンだ。ミューオン原子核捕獲反応を用いれば、原子炉に頼らず核医学検査用の薬剤を生成することができる。

ミューオン原子核捕獲反応とは、陽子とミューオンが結合して、中性子とニュートリノになる反応である。

$${p +\mu \rightarrow n + \nu}$$

一つの原子核は、一つのミューオンで、核変換されるというものである。つまり、これは、原子番号$${Z}$$の物質を原子番号$${Z−1}$$の物質に変えることと同じである。

$${X(A, Z)+\mu\rightarrow Y(A, Z-1) + \nu}$$

ここで、$${A}$$は質量数を表す。

物質$${X}$$とミューオンを反応させると違う物質$${Y}$$を作り出せるということだ。先ほど、ミューオンは重い電子と述べたが、その質量がこの反応の邪魔になるのではと思ったかもしれない。ミューオンの質量エネルギーの大部分はニュートリノが持ち去るので問題ない。原子番号$${Z}$$の物質から$${Z−1}$$の物質が作れるのなら、$${Z−1}$$から$${Z−2}$$を作ることができ、さらに$${Z−3}$$も生成できる。これを繰り返せば$${Z-n}$$の物質を作り出すことができてしまうのだ。日本が誇るニホニウムは原子番号が大きい元素で113番目だが、ニホニウムが大量にあれば、宇宙に存在するほとんど全ての物質を作り出せてしまう(ニホニウムは10年で3回しか合成できていないので、本当は大量に作るのは難しいのだが)。

放射性診断薬の原料の約80%はテクネチウム$${T_c}$$である。$${T_c}$$の同位体のひとつである$${^{99m}T_c}$$は、ガンマ線を放出しながら6時間という短さで崩壊する。そのため、体内に投与しても放射線による被害はほとんどない。$${^{99m}T_c}$$の崩壊の際に放出される透過性の高いガンマ線を体の外から検出することで、体内の画像診断ができる。$${^{99m}T_c}$$は、$${^{99}M_o}$$(モリブデン)が崩壊する過程で生まれ、$${^{99m}T_c}$$は最終的に安定な$${^{99}T_c}$$になる。

$${^{99}M_o \rightarrow ^{99m}T_c \rightarrow ^{99}T_c}$$

の崩壊過程を利用して診断を行っている。

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