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文化庁の日本語教育の参照枠と標準的なカリキュラム案を再考する① — 「生活」の中に「人と交わってお互いのことを話し人生を分かち合うこと」が入っていない!

 文化庁は、日本語教育の参照枠と標準的なカリキュラム案の路線で、いよいよ教育モデルの策定を進めようとしています。しかし、これまでの参照枠でもカリキュラム案でも、そこで言われている「生活」は実際的な必要を満たす生活上の行為等のみに限定されており、「生活」の中に「人と交わってお互いのことを話し人生を分かち合うこと」が含まれていません。つまり、生活上で対応しなければならない実用の日本語ばかりが注目されて、人と交わってお互いに自分のことを話して人生を分かち合いながら生きていく交友の日本語の領域にまったく目が向けられていません。
 本発信では、「生活」であれ、「就労」であれ、「留学」であれ、教育課程を考える場合には、実用の日本語と交友の日本語を2本柱として教育課程を企画する必要があることを主張します。

1.背景
 地域の日本語教育あるいは生活者のための日本語教育は2006年までは文化庁が「一括して」担っていました。そして、1990年頃から「多文化共生の大合唱」が日本語教育学会でもそして文化庁内でも起こっていました。以降、地域の日本語教育では、日本語習得支援の活動とともに多文化共生社会の推進ということを合わせて「二人三脚」で行うという方向で施策を展開していくというおおむねの流れが関係者の間ではできていました。ところが!、地域の日本語教育(この時は、実際には主に南米からの日系人及びその家族が対象と考えられていましたが)が施策の俎上に載った『生活者としての外国人』に関する総合的対応策」(2006年、外国人労働者問題関係省庁会議、経済財政諮問会議承認)で、日本語教育は文化庁、多文化共生は総務省とパキッと二分されてしまいました。以降、文化庁関係の施策では「多文化共生」は禁句となりました。文化庁及び関係者は、日本語と多文化共生の二人三脚をあきらめざるをえなくなりました。そして、生活者のための日本語教育として、上で言った「生活のために必要な」(標準的なカリキュラム案)実用的な日本語のみを扱うようになったわけです。

2.実用の日本語と交友の日本語
 上のような経緯で文化庁及び関係者は今でも実用的な日本語の「牢獄」に閉じ込められています。まるで、実用的な日本語以外を扱うと「叱られる」というトラウマでもあるかのように。
 その結果が、「生活」の中に「人と交わってお互いのことを話し人生を分かち合うこと」が含まれない状況、そしてそれに関わる交友の日本語が組織的に含まれない現在の標準的カリキュラム案や参照枠の状況です。2022年3月に文化庁の小委員会の報告書として、「地域日本語教育おける日本語教育の在り方について」というのが改めて出されましたので、以下にURLを出しておきます。ここでも、実用の日本語一辺倒です。

https://www.bunka.go.jp/.../nihongo_111/pdf/93704801_07.pdf

3.地域における日本語教育の課題
 上の報告書のpp.3−4で、地域における日本語教育の現状と課題が列挙されています。その課題の部分のトップは以下です。

○「生活者としての外国人」に対し学習機会を提供し、地域における日本語教育を促 進するため、地方公共団体等が一層活用しやすい日本語教育の内容を提示する 必要がある。また、日本語教育が未実施の地域でも活用しやすいものとすることが 求められる。

 要は、現在ある標準的カリキュラム案は、活用しにくいということです。そして、同報告書で何をしているかというと、標準的カリキュラム案から重要と思われる生活上の行為を抽出してリストにしています(p.15)。その上で、p.16以降では、リスト内の生活上の行為の事例を採り上げて、カリキュラム策定に向けた要領を説明しています。これで、「活用しやすく」なるのでしょうか? そして、重要なことは、相変わらず「生活のために必要な」実用の日本語から離れることができていないという点です。

4.交友の日本語を学びながら交流できる人を得る
 標準的カリキュラム案で挙げられている生活上の行為は、一部はその行為・活動の流れや仕方がわかりさせすれば日本語一言でできるもので、もう一部は行為に関わる日本語依存が高すぎてとても基礎的な日本語力ではできないもの、となっています。いずれにしても、「生活のために必要な日本語」の教育のある種のゴールを示しているとは言えますが、日本語のカリキュラムを策定するための土台になるものではないでしょう。生活者のための日本語の教育では、(1)生活上の行為を知ることとを中心にしてその行為の中での重要なフレーズを身につけることと、(2)自身のことを知り合った人に話す交友の日本語を2本の柱として教育課程を企画するのが適当だと思われます。
 そして、(2)の交友の日本語を教育課程に入れることは、(a)基礎的な日本語力を着実に養成することができる、(b​)それを学びながら自身のことを知ってくれる人(教室の教師やボランティア)を得ることができる、(c)教室の外で出会った人に自身のことを知ってもらえて友人関係を作ることができる、ということに繋がります。
 「生活」であれば、まず交友のための日本語。そして、「就労」や「留学」などでは、一般的に語られるさまざまな話題やテーマについて一定程度自分のことや自分の経験や考えなどが日本語で話せるようになるという言語活動領域を教育課程に含めないと、無味乾燥で非人格的な日本語を、無味乾燥で非人格的に教え/学ぶだけの日本語課程になってしまいます。それは、日本語教育の参照枠の言語教育観のトップで「生活上の行為の達成」を超えて謳われている以下の考えに合致するのではないでしょうか。

1  日本語学習者を社会的存在として捉える
 学習者は、単に「言語を学ぶ者」ではなく、「新たに学んだ言語を用いて社会に参加し、より良い人生を歩もうとする社会的存在」である。言語の習得は、それ自体が目的ではなく、より深く社会に参加し、より多くの場 面で自分らしさを発揮できるようになるための手段である。(上掲報告書p.6)

 この場合の「(より深く)社会に参加」というのは、交友の日本語や話題やテーマについての表現技量(この両者を合わせて、表現活動の日本語と呼んでもいいかと思います)もあってこそ達成できるのではないでしょうか。

 外国出身者を自身の声をもって自身の存在を他者と共有できる「人」として暮らしていける日本語ユーザーに育てなければならないのではないでしょうか。外国出身者をただ生活環境に順応して生きていく実用的な日本語ユーザーにするだけでいいのでしょうか。

 今年度が、適正な日本語の学習と支援の環境を整える、最後のチャンスです。

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