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生活者のための日本語教育と日本語支援のあり方について ④: 実用的な日本語と自己表現の日本語という2本柱によるカリキュラムの標準化

1.人と交わってお互いのことを話して人生を分かち合う日本語=自己表現の日本語の提案
 生活上の諸活動を営む上で必要な日本語、仕事を遂行するために必要な日本語などを実用的な日本語と呼ぶことにしましょう。文化庁がこれまで進め、今後も進めようとしているカリキュラムの標準化では、端的に、実用的な日本語のみが注目されています。この4回シリーズで主張してきたことは、生活者のための日本語教育/日本語支援として、実用的な日本語だけでよいのか、ということです。
 「人が生きることを営むというのは、必要な用を足したり、目的を達成したりすることだけではない。人が生きることのとても重要な部分は、人と交わってお互いのことを話して人生を分かち合うことです。この部分がないと、ただ「パンのみに生き」ていることになります。「パンのみに生きる」というのは、人が一人の人として生きる姿ではありません。
 現在、日本では、本当に日本各地でさまざまな形での外国出身者が暮らしています。そうした人たちが「パンのみに生きる」(そして、お金を稼ぐ!?)だけでなく、日本語もできるようになって、日本語を用いて、日本生まれ日本育ちの人などと交わって、この日本の土地でも他の人と人生を分かち合いながら生活する、そのような生活を支える日本語も身につけてもらう、それが「多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現」(日本語教育推進法第1条)のためにもふさわしいのではないでしょうか。
 こうした人生を分かち合う日本語では自身のこと(自己紹介ということではなく、自分の家族や友人のこと、国のことや生まれ育った町のこと、国での生活や現在の日本の生活、好きな食べ物・飲み物・スポーツ・音楽など、学校や職場の話、家族旅行など普通に友人と話すこと)を話すことになりますので、そうした日本語のことを、実用的な日本語に対し、交流のための日本語、あるいはもっと端的に自己表現の日本語と呼ぶことにしましょう。
*自己「表現の」と言っても、自分が話すばかりではなく、相手の話を聞いたり、会話したりすることも含みます。
 
2.交流のための日本語あるいは自己表現の日本語の位置づけ
 お役所の施策というのは、法律や政令や省令などの法令に準じて行われますので、まずは法律をチェックしておきたいと思います。
 日本語教育推進法(正式には、日本語教育の推進に関する法律)の第1条には、以下のように謳われています。太字強調は筆者。

第一条 この法律は、日本語教育の推進が、我が国に居住する外国人が日常生活及び社会生活を国民と共に円滑に営むことができる環境の整備に資するとともに、我が国に対する諸外国の理解と関心を深める上で重要であることに鑑み、日本語教育の推進に関し、基本理念を定め、並びに国、地方公共団体及び事業主の責務を明らかにするとともに、基本方針の策定その他日本語教育の推進に関する施策の基本となる事項を定めることにより、日本語教育の推進に関する施策を総合的かつ効果的に推進し、もって多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現に資するとともに、諸外国との交流の促進並びに友好関係の維持及び発展に寄与することを目的とする。

 交流のための日本語あるいは自己表現の日本語が「多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現」(日本語教育推進法第1条)のためにもふさわしいということはすでに言及しました。
 次の争点となるのは、上の冒頭の太字部分の「日常生活」や「社会生活」の中に、他の人と交わって人生を分かち合うという活動が含まれるか否かです。
 まず、「日常生活」と「社会生活」の対比は、後者が仕事という生活活動で、前者が仕事以外の生活活動のようです。「標準的なカリキュラム」では、この「日常生活」のほうを採り上げ、それに含まれる生活活動を「生活場面と密着したコミュニケーション活動」(『標準的なカリキュラムについて』p.2)に絞り込んでしまったようです。そして、「社会生活」のほうは、おそらく! 就労のための日本語ということでやはり実用的な日本語のみが採り上げられることになるのでしょう。
 しかし、よく考えてみてください。わたしたちは、日常生活のいろいろな場所や場面でそこで出会う人たちと、「どこから来たの? 今どこに住んでるの? 何してるの?」などから始まって「お国はどこ? どんなところ? ご家族は?」などあれこれ言葉を交わします。そして、「社会生活」においても、お昼の食堂や、お弁当を食べる休憩室などで、そんなやり取りが始まることもあります。そして、言葉を交わしているうちにいつしか友人になって、もっといろいろな話をするようになり、やがて友だち関係に発展するという展開もあります。
 交流のための日本語の活動というのは特別なコミュニケーション場面があるわけではありません。むしろ、逆にさまざまな実用的なコミュニケーション場面のすき間や合間でいつでも起こり得るものなのです。そして、その部分こそが人間らしい人と人とのコミュニケーションとなり、人間らしい活動となります。交流のための日本語の活動は、人間らしい活動として、生活のいろいろな場面で起こり得るものであり、「多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現に資する」ことを日本語教育の推進の目的とするのであれば、注目して奨励されるべきことで、それを支える日本語の教育はカリキュラムの標準化に含まれるべきでしょう。

3.日本語教育一般、外国語教育一般における交流のための言語活動あるいは自己表現の言語活動
 この記事の提案は、実用的な日本語と並行して、交流のための日本語あるいは自己表現の日本語というものをカリキュラムの標準化内に立てることです。実用的な日本語と、交流のための日本語あるいは自己表現の日本語という2本の柱を立ててこそ、推進法の趣旨とも合致するカリキュラムの標準化となります。そして、現在のように実用的な日本語のみに注目するのは、重要部分を見逃しているということになります。
 そして、さらに言うと、交流のための日本語や自己表現の日本語が重要という議論は生活者の日本語の場合だけでなく、就労の日本語や、留学生の日本語や、児童・生徒のための日本語などの場合にも当てはまります。これまでの日本語教育、あるいはこれまでの外国語教育一般で、交流のための言語活動や自己表現の言語活動というのが適切な注意を向けられてこなかったと言わなければなりません。ひじょうに重要な部分でありながら、ずっと、日本語教育の企画(≒カリキュラム)、外国語教育の企画の「盲点」になっていました。その部分を「回復」できるか否かが、今後の日本語教育施策の成否に大きく関わっていると言っても過言ではないでしょう。

 以下、ごくごく参考として、2年ほど前に書いた原稿(未刊)の一部を紹介しておきます。上の議論と直接には結びつきませんが、「精神」は同じです。

参考資料: 『ボランティアによる日本語支援 ─ つながりながらのつながる日本語のすすめ』(未刊)より

*「第2章 地域日本語活動をめぐる「三律背反」と新たな方向」の4と、終章の2。

4.つながりながらのつながる日本語 ─ 地域日本語活動の新たな方向
4-1 人とのかかわりやつながり作りに奉仕する日本語
 第1章で論じた諸条件や本章で論じたさまざまな要素を勘案すると、地域日本語活動としてふさわしい方向は以下の5つにまとめることができると見られます。

I.地域日本語活動の方向性
1.誰もが対等でお互いの違いを認め合い、みんながそれぞれ自分らしく生きられる社会文化の醸成に貢献する。
2.日本人と話す機会を持ちたい。そそて、日本語を上達させたいという外国出身者の期待に応える。日本語でお相手をして少しでも日本語を伸ばしてもらえればという市民ボランティアの感覚を活かす。
3.教室に参加している日本の人たちと外国出身の人たちが教室で出会い交流する。
4.外国出身者は地域の事情を知りその地域で暮らすことが容易になる。また、知人や友人ができることで、地域の暮らしに馴染み、居心地よく暮らせるようになる。
5.外国出身者は日本語が上達して、一層人とかかわりつながりながら暮らせるようになる。日本の人は外国出身者と話すための日本語の調整が上手になる。また、外国出身者の支援者としての資質や能力を高め、多様性を積極的に受け入れる態度を身につける。
6.普通に暮らしている人や普通の暮らしという目線で、外国出身者は日本の人や日本についての理解を深める。同様の目線で、日本の人も外国出身の人も、人や人間の生き方や暮らし方などの多様性について理解を深める。

 以上の方向性を踏まえて、標準的なカリキュラム案との対比で、つながりながらのつながる日本語の考え方を説明したいと思います。
 日本のそれぞれの地域で生活している外国出身者の日本語の支援ということを考えた場合に、第2章の1で話したようなオーソドックスな日本語教育の内容をそのまま日本語支援活動の内容とするのは適当ではないと文化庁も考えました。そして、いわばその代替案として標準的なカリキュラム案を提案しました。しかし、提案された標準的なカリキュラム案では、「『生活』という側面」が注目され、「生活場面と密着したコミュニケーション活動」(いずれも標準的なカリキュラム案より引用)のみが採り上げられました。簡単に言うと、教室の外でしなければならないさまざまな生活活動を運営するための日本語のみが注目されたのです。先にも指摘しましたが、広い意味での生活日本語を身につけてもらおうという趣旨です。しかし、教室の外で使う日本語を教室の中で学習するとなると、日本語支援の活動は結局のところ、生活日本語を教える活動になってしまいます。また、そこで採り上げられている内容は、日本語教室を訪れる、多かれ少なかれ自分なりの生活を確立して安定して暮らしている人の期待にはあまり適合しません。
 標準的なカリキュラム案が抱える重要な問題は、その端緒で「『生活』という側面」に集中したことです。つまり、その方針では、在住外国出身者の「健康・安全に暮らす」、「買い物などの消費者としての活動を行う」、「交通機関等を使って移動する」など日々の生活を営む側面だけが注目されているのです。そこには、いろいろな人と関わって人とつながりながら日々を暮らすという視点が決定的に欠けています。人として生きる者は、生活活動を営むだけではありません。他の人とかかわりつながりながら日々を暮らすことも人として生きることのきわめて重要な側面です。言語は、生活活動の運営に奉仕しますが、人とのかかわりやつながり作りにも奉仕するものです。この後者に標準的なカリキュラム案では目が向けられていないのです。
 外国出身者は、一定の日本語を使って生活活動を営まなければならないでしょう。しかし、現代の社会では、買い物にしても、荷物を送るにしても、交通機関を利用するにしても、そのシステムややり方の手順がわかりさえすれば、ほとんど日本語なしに済ませることができます。人とのかかわりやつながり作りのほうは、そうはいきません。日本語で話してもらわないとその人のことが何もわからないし、日本語がわかってもらえないとこちらのことを知ってもらうこともできません。日本語教室を訪れて、十分でないながらも日本語で教室にいる日本の人に話しかける外国出身者は、日本の人とかかわりたいのです。そして、自分のことを少しでも知ってほしいし、いろいろな人と会ってつながりを広めたいと思っているのです。
 人は他の人とコミュニケーションをすることでかかわりやつながりを作ります。そして、知人になり、友人になり、より深く知り合うことでやがて親しい友人になっていくのです。地域で暮らす外国出身者の場合も、そのようなプロセスで知人や友人を得ることで、同じ町に暮らす人の一人となります。そして、そのように知人や友人を得てこそ、時にその人たちに助けられたり、また時には自分がその人たちを助けたりして、安全で安心で居心地よく暮らせるようになるのです。
 ボランティアによる日本語支援の活動では、オーソドックスな日本語教育のように日本語の構造と語いや漢字などを教えるのではなく、また生活活動ための実用的な日本語を教えるのでもなく、むしろ、人とのかかわりやつながりを作ることに奉仕する日本語に関心を向けるのがふさわしいと思います。そして、そのような趣旨を達成するのに、地域の日本語教室は絶好の場となり、日本語上達のために有益な言語活動に従事する機会を豊富に提供することができます。さらには、そのように人とのかかわりやつながりに奉仕する日本語に注目した活動は、多文化共生の推進にも資することができます。

4-2 地域日本語教室の潜在力
 上で、「そのような趣旨を達成するのに、地域の日本語教室は絶好の場となり、日本語上達のために有益な言語活動に従事する機会を豊富に提供することができます」と言いました。それはどういうことでしょう。
 地域の日本語教室には、地域で暮らすさまざまな日本の人や外国出身の人が参加します。今まで知らなかった人たちが、ただ「日本語!」という呼びかけの下に集まって、定期的に寄り合って何だか活動をするわけです。そこには日本の人と外国出身の人という多様性があるだけではなく、さまざまな日本の人、さまざまな外国出身の人が参加しています。とても不思議な人々の集まりです。そして、それまで知らなかった人同士が協力し合って、みんなが気を楽にして居心地よく過ごせる場を作ろうとしているのです。
 地域の日本語教室はそんな場なので、本質的に人と出会う場、人と出会わざるを得ない場なのだと思います。そして、そこでいろいろな人と社交する場なのだと思います。社交するというのは、どういうことでしょう。知らない人同士の場合では、お互いに無理をせずにまた無理強いもせずに穏やかに自分のことや自分の身の回りのことなどを話して人と交流をすることです。
 うまい喩えかどうかわかりませんが、地域の日本語教室は「日本語」というスローガンの下にそういう「かかわりとつながりの磁場」を形成している場です。ですから、それに参加する日本の人も外国出身の人もこの磁場の磁力に身を任せて自然体でいろいろな人とかかわり交流すればいいのです。そして、通じるかぎりの日本語と知っているかぎりの日本語でそれをすればいいのです。それが、地域日本語教室の基本的な姿なのだと思います。
 日本語は、それが実際に人と人との間で行われる活動を取り持つときに、最も有効に習得されます。地域の日本語教室には「かかわりとつながりの磁場」があるわけですから、それに乗って実際に日本語を使ってその活動をすることで、日本語は最も有効に習得されるということになります。地域の日本語教室が、つながりながらのつながる日本語を習得するための絶好の場となると言ったのは、このような事情からです。

4−3 つながりながらのつながる日本語の活動
 人とのかかわりやつながりに奉仕する日本語とはどのような日本語でしょう。それはわかりやすく言うと、生活上の実用のための日本語と対比的な関係になる、交友のための日本語です。もっとわかりやすく言うと、人とおしゃべりするための日本語です。
 いろいろな人とかかわって人とつながりながら暮らすためには、自分はどこから来たか、いつ日本に来たか、今どこに住んでいるかを話すだけでは十分ではありません。知り合った人と親しくなっていけば、日々の生活、休日の過ごし方、好きな食べ物や飲み物、趣味のスポーツや音楽、日本各地への旅行やその他の旅行の話、家族の状況、今したいことや将来の希望、親切にされた話、子ども頃のわたしなど、自分のいろいろな側面や自分にまつわる話などをします。そして、そのような話を相互に交換してこそ、人とのかかわりやつながりが深まっていき、いい友人ができ、友だちの輪も広がっていきます。
 このような自分のことや自分の身の回りのことなどについて話す、同様の話題について聞いて理解する、会話をするというのが交友のための日本語です。本書では、そのような日本語のことをつながる日本語と呼びます。そして、日本語ボランティアと外国出身参加者が実際にそのような話題で交流をしながら、外国出身参加者がつながる日本語を伸ばしていき、そして日本の人が外国出身者にわかりやすい日本語の話し方ができるようになる活動が、つながりながらのつながる日本語の活動です[2]。そして、そのような活動でこそ上のIとして挙げた地域日本語活動の方向性を対応する活動となるのです。

*以下、終章の2。
2.日本語と多文化共生の再融合
2-1 日本語支援活動の趣旨とつながりながらのつながる日本語
 第1章の2-2で日本語ボランティアの立場と役割について話しました。地域日本語活動や日本語ボランティアの活動をその当初の関心から言うと、「外国出身の人が日本語教室に定期的に参加することで、少しでも日本語が上手になって、この町で普通に暮らしているわたしやわたしたちと普通におしゃべりできるようになって、自分らしく気持ちよく暮らせるようになってくれれば」という気持ちから始まる活動だと言えるでしょう。しかし、これも第1章で論じましたが、その活動はややもすると「日本語を教える」活動になってしまう傾向があります。つまり、「わたしたちボランティアは、かれら外国出身の人たちに、何をすれば、いいのか」ということを真剣に考えると、この「何をする」に対してある特定の姿を描きたくなります。その姿としてイメージされるのが、日本語教師による日本語を教えるという行為だということです。
 少し日本語教育学的な話をすると、オーソドックスな基礎日本語教育の趣旨は、第2章の1-1でも論じたように、文型・文法、語彙、音声、文字にわたる日本語の基礎知識を身につけ、「話す」、「聞く」、「読む」、「書く」の4つの言語技能の基礎を身につけさせることです。しかしながら、これも第2章の1-1で言ったように、日本語の先生たちの関心は各課の文型・文法事項をいかに教えるかに集中しがちです。また、少し先進的な考え方の日本語の先生は日本語の知識や技能に集中して教えるのではなく、学習者のニーズに対応した実際のコミュニケーションの仕方を教えなければならないと言います。そして、買い物の仕方や、電車の乗り場の尋ね方や、人の誘い方や、物を頼むときの頼み方、約束の仕方などの言語コミュニケーションに注目します。そして、日本語ボランティアにおいては、何にしても日本語教師がしていることを取り入れようとする傾向があるということです。
 しかし、もう一度よく考えてみましょう。日本語の知識や技能を身につけさせることや文型・文法事項を教えることが日本語ボランティアのそもそもの関心だったのでしょうか。実際のコミュニケーションの仕方を教えることが本当に外国出身の参加者の期待に合致しているでしょうか。そして、そもそも「教える」というような、「わたし」が主要な主体で「かれら」を客体の位置に置く目標達成的な行為が当初の関心だったでしょうか。そうではありませんでした。当初の関心はむしろ「外国出身の人が日本語教室に定期的に参加することで、少しでも日本語が上手になって、わたしやわたしたちと普通におしゃべりができるようになってくれれば」というくらいの素朴な感覚でした。
 日本語の先生の場合は、仕事として日本語を扱うわけですから、「わたし=先生」と「かれら=学習者」という区別が生じることはやむを得ないことでしょう。そして、「わたし(先生)」は行為主体となって「かれら(学習者)」に日本語を教えて身につけさせるという責任も生じるでしょう。しかし、日本語ボランティアや地域日本語教室の活動を考える場合には、そのように「『わたし(たち)』は『かれら』に」というふうに彼我を対照的に捉えて「何かをしよう」とする必要はありません。そうして彼我を対照的に捉えることがむしろ「日本語を教える」という方向への歪みを生じさせる根本の原因になっています。日本語ボランティアと外国出身参加者をそのように捉えて日本語を教えようとするのではなく、むしろ、当初の関心である日本語でおしゃべりするのが上達することを趣旨として、ボランティアも外国出身参加者も対等な当事者となって、両者で行うおしゃべりという活動の中でその趣旨を追究しようとしたほうが、当初の関心にうまく適合するのです。基礎日本語教育の趣旨をそのようなところにおいた企画が自己表現活動中心の基礎日本語教育の企画です。そして、そのような趣旨を地域日本語活動において実現することをめざした提案が本書で論じたつながりながらのつながる日本語の提案です。

2-2 声の獲得をめざす日本語支援
 筆者は専門のテーマの一つとしてロシアの文芸研究者で言語哲学者のミハイル・バフチン(1895-1975)が提唱する対話原理を研究しています。バフチンの対話原理の中心には声という概念があります。

 バフチンによると、言語というのは、思考やイデオロギーや人格から切り離して独立に存在するものではありません。言語の現実とは、人と人の間で実際に行われる接触と交わりで交わされることばだと言います。そして、そのように実際の接触と交わりで立ち現れることばは声(ヴォイス)と捉えられます。声とは、人として生きる当事者の人格の声であり、意識の声です。

 おしゃべり日本語を中心に据えて活動をするというのは、知識や技能として日本語を教えるのではなく、日本語がまだ十分でない外国出身者一人ひとりにかれら自身を日本語で語る声の獲得を支援する活動となります。声の獲得を支援しながら、その素材となる日本語の習得も支援するということです。
 自己表現活動を具体的な内容とした教育あるいは支援の企画は、巻末資料2を見ればわかるように、一連のテーマの下に声の獲得と日本語の習得の両方を支援するように意図された企画です。つながりながらのつながる日本語の活動は、そうした企画の下でのボランティアによる具体的な活動の実践となります。
 その企画には、支援者であるボランティア自身もその地域で暮らす一人の知人・友人として自分の声で自分の話をすることが組み込まれています。そして、声の獲得の支援者の重要な役割は、かれらの声にしっかりと耳を傾け、それを他者に伝えることができる日本語にかれらといっしょに仕立て上げることです。また、その声を教室にいる他の人にも伝えることです。そして、そうしてかれらが獲得したそれぞれの「わたしの声」は、今度はかれら自身が職場や仕事場などの人と交わり交流することを通して日本語教室の外へと広がっていきます。このように外国出身者の声に耳を傾けてかれらの声を聞くこと、そしてかれらの声を聞いてかれらのことを知ってかれらとつながる人が日本各地で増えていくことが、多文化共生が進む重要な要因となります。つながりながらのつながる日本語の活動はそのような形で多文化共生の推進にも寄与することができるでしょう。

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