言語教育(日本語教育)を実践するときにまず認識しておくべきこと
「まず認識しておくべきこと」の第2弾として、言語教育(日本語教育)を「実践するときに」まず認識しておくべきことについて、やはり箇条書きで、書いてみたいと思います。*第1弾は、https://note.com/koichinishi/n/nff666cfd8b87。
1.日本語の授業の風景
日本語の授業を見ることがあります。そこで広く見られる風景は、2つです。1つは、話すことを促された学習者が、伝えたいことを日本語にすることができないで苦労している姿です。そして、いま1つは、学習者の質問に対して長い時間をかけて説明をしている教師の姿です。いわゆる「導入」の部分を除くと、この2つの風景が授業のほとんどを占めていると言っても過言ではないでしょう。
本記事は、それでいいのでしょうかという疑問の提示です。
2.話すことは日本語力の育成に寄与するか
授業で話すことを促された学習者が、伝えたいことを日本語にすることができないで苦労しています。教師は、やさしく待って、学習者が言葉を見つけることを励まします。そして、結局は、教師(や時に他の学習者)がその学習者が伝えたいことを「代弁」してあげて、ようやくその学習者はほしかった日本語を得ます。そんなことで、ほんの一言の日本語を得るために相当の時間が費やされます。その間、他の学習者は「手持ち無沙汰」となっています。
2つのポイントを論じます。まずは、このように話させることが日本語力の育成に寄与すると当面仮定しましょう。そうであれば、一人の学習者が上のような状況で指導を受けている間、他の学生は「話させられていない」わけですから、その時間は日本語の習得は進まないことになります。また、授業が60分で、学習者が20人いるとすれば、単純に割り算すると一人の学習者は1回の授業で3分のみ指導を受けることになります。もちろんグループで会話をさせたり、ペアでタスク活動をさせたりした場合は、話す機会はもっと増えるわけですが、そのようにすると今度は話すことの(教師による)介助が弱くなります。このように考えると、話すことが日本語力の育成に寄与すると仮定すると「無理」が出てきそうです。
次は、ふつーに考えて、そもそも、話すことが日本語力の育成に寄与すると考えられるか、です。ふつーの人は、特段に深く考えずに、「話さないと、あるいは話す努力をしないと外国語は伸びない」と言います。額面通りに解釈すると、「話すことが日本語力の育成に寄与する」と考えていることになります。英語の先生や日本語の先生などの外国語の先生も「学習者に話す機会をたくさん与えることが重要で、教師が話すことは控えるべき」、「学習者が積極的に話そうとしている活発な授業がいい授業」、「学習者に積極的に話そうという気にさせている先生がいい先生」のように言うことが多く、やはり「話すことが日本語力の育成に寄与する」と考えているものと見られます。
しかし、よく考えてみてください。話すためには、日本語の言葉遣いや表現や語(もしかしたら文型や語彙の知識も!?)が必要です。「必要」というのは、あらかじめその学習者の中に何らかの形でそれらが蓄えられていなければならない、ということです。そうした蓄えがかなりの程度すでに形成されていてこそ、多少の不備がありながらも話せるということになります。そうした事情を考えると、日本語の習得の重要な部分は、「多少の不備がありながらも話してみる」ことではなく、むしろ言葉遣いや表現や語などの蓄えの形成を支援することだとなります。そうなると、日本語の授業でも、学習者にまだ十分にそうした蓄えができていない状況で話させるのではなく、そのような蓄えを形成するための活動をもっと豊富に実施するべきだとなります。
Krashenは「話すことは習得の結果であって、言語ができるようになる原因ではない」(Speaking is a result of acquisition and not its cause.)と言っています(Krashen, 1985)。Krashenは「物議を醸している」研究者ですが、この一言は、上のような常識的な判断からも、適切であるように思われます。
多くの先生の授業を見ていると、学習者に「話させる」という、知識や技能が身についているかどうかの「小テスト」ばかりしていて、肝心の日本語力を形成する習得を促進する活動を実施していないと、わたしの目には映ります。
3.外国語の習得はできることを積み重ねていくこと
上のことと関連することですが、日本語の先生は、学習者にとてもできないことを要求していることがひじょうに多いと思います。「とてもできないこと」を要求すると、その扱いや処理や対応にひじょうに時間がかかることになります。また、できない部分を「補充」するためにまた時間がかかります。
端的に言って、授業のすべては、ちょっと背伸びをしたらできることをさせるべきでです。話すことでは、「ちょっと背伸び」の部分は教師による支援や介助ということになります。また、「ちょっと背伸びをしたら…」は話すことばかりではなく、聞いて理解することあるいは理解しながら聞くことにも当てはまります。2で論じた、日本語の言葉遣いや表現や語などの蓄えを形成するための活動として、イラストの提示や身振り手振りどを交えながらの教師の話を理解しながら聞くという活動も、このちょっと背伸びしたらできることで言葉遣いや表現や語などの蓄えを形成する重要部分となります。
そうした「ちょっと背伸びをしたらできること」を着実に積み重ねることこそが本当の意味での日本語の習得の促進になります。話すことの「小テスト」ばかりの授業は日本語の習得に本当に寄与するものではないでしょう。
4.「ちょっと背伸びをしたらできること」の積み重ねを可能にする教育企画
短く論じますが、教育企画(≒カリキュラム)のほうで、学習者と教師に「過剰なノルマ」を要求していると、学習者も教師もそのノルマを果たすために必死になって、結局1つの課やユニットで適正な日本語習得を順調に達成することはできないことになります。
ですから、「ちょっと背伸びしたらできることを積み重ねる」という着実な日本語の授業を実施するためには、教育企画が着実な日本語の上達の経路を反映したものでないといけない、ということになります。
5.学生の質問に対して長い時間をかけて説明をしている教師
風景の2つめの「学習者の質問に対して長い時間をかけて説明をしている教師」がかんばしくないことはご理解いただけるでしょう。
これも短くのみ論じますが、学習者から質問が出ることや、その質問への対応に時間がかかることは、いずれも「無理をしている」ことの結果です。やはり、「ちょっと背伸びしたらできることの積み重ね」が肝心だということになります。
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