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名前のない定食屋 [ショートショート]
駅前の古びた定食屋に初めて足を踏み入れたのは、金曜日の午後だった。外の看板には「本日のおすすめ」とだけ書かれ、店名はどこにも見当たらない。それでも、漂う醤油の香りに引かれて中に入った。
カウンターの端に腰を下ろすと、店内には三組の客がいた。一人で静かに新聞を読んでいる中年の男性、向かい合って黙々と食事をする夫婦らしき二人、そして奥のテーブル席で小さな子どもと話す母親。どの顔にもこの店が特別な場所であるような親しみが浮かんでいるように思えた。
「いらっしゃいませ」
厨房の奥から現れたのは、エプロン姿の初老の男性だった。彼は私を見るなり「今日が初めてかい?」と尋ねた。どうしてわかるのかと不思議に思いながら頷くと、彼は手早く水を注ぎ、メニューを手渡した。
メニューは驚くほどシンプルで、定食が五種類だけ並んでいる。迷った末に、焼き魚定食を頼むと、男性は黙って頷き、厨房に戻った。しばらくすると、湯気の立つ白いご飯と味噌汁、香ばしい焼き魚が運ばれてきた。
「ここ、名前ないんですか?」と尋ねると、彼は少し驚いたように目を丸くした。「そんなこと考えたこともなかったな」と笑いながら答えた。
食事を終え、店を出るとき、再び「名前のない店なんですね」と言ってみた。すると、彼は笑顔で「名前がないからこそ、みんなの店だと思えるんだ」とつぶやいた。その言葉が不思議と心に残った。
それから、私は毎週金曜日にその店を訪れるようになった。何度も通ううちに顔馴染みの客も増えたが、店名を尋ねる人は誰もいなかった。ただ静かに食事を楽しみ、またそれぞれの日常に戻っていく。
名前のない店。それでも、私にとって特別な場所となったことに変わりはない。