薄化粧と朝帰り [ショートショート]
玄関を開けた途端、鼻を刺す湿った汗の匂いに気づいた。廊下の奥には弟がうつ伏せで寝転がっている。スーツの裾は埃で白く汚れており、革靴が片方だけ脱げていた。私が深呼吸しながら近づくと、弟は目を開け、短く「ただいま」と呟いた。
「朝帰りってやつ?」私は問いかけたが、返事はなかった。代わりに彼は腕で顔を覆った。その動作で、昨日つけたであろう香水の匂いがわずかに漂う。きっと友人と飲みすぎたのだろう。こういう光景を見るのは初めてではない。
洗面所に向かい、顔を軽く洗ってから鏡を見る。薄化粧の自分が映る。目の下のクマがうっすらと浮かんでいるのを指先でなぞり、ファンデーションを少しだけ足した。準備が整ったところでリビングに戻ると、弟がゆっくりと体を起こしていた。
「水、飲む?」声をかけると、彼はぼんやりとうなずいた。冷蔵庫からペットボトルを取り出し、弟の前に置く。キャップを開ける音が静かな朝に響く。彼は一息に半分ほど飲み干し、少し息をついた。
「怒らないの?」弟がぽつりと聞いてくる。その言葉には、少しだけ子供の頃の彼が残っている気がした。
「怒る理由があるならね。でも、今日はまあ、いいんじゃない?」私は肩をすくめて答えた。弟は苦笑いし、またペットボトルを傾けた。
カーテン越しに射す光が、リビングの床を淡く照らしている。静かな空気の中で、私たちは何も言わずにしばらく座っていた。彼の疲れた横顔を見ていると、やがて日常がまた始まる気がした。
カーテン越しに射す光が、リビングの床を淡く照らしている。静かな空気の中で、弟はつかれた顔で何も言わずにしばらく座っていた。
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