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逆上がりができなかった。 [ショートショート]

部屋の隅に積まれた古い日記帳をめくる。最後に書かれた日は、ちょうど十年前だった。薄い青いインクが少しにじんでいる。内容は散文的で、学校や友人の名前、授業での出来事が記されているだけだったが、ある一文に目が留まった。

「逆上がりができなかった。」

その日は晴れていたと書かれている。体育の授業で、クラス全員が鉄棒の前に並び、順番に逆上がりを試みたという。日記には、できる子が増える中、自分だけが何度やっても失敗したこと、先生の励ましやクラスメイトの声援がむしろ重荷に感じられたことが記されていた。

部屋の窓から差し込む光が柔らかくノートの紙面を照らす。私は立ち上がり、久しぶりに外に出ることにした。近所の公園に行けば、あの頃と同じような鉄棒がまだあるだろう。

公園は静かだった。冬の冷たい風が頬をかすめる。誰もいない砂場の隅に、目当ての鉄棒を見つけた。錆びてしまった表面がざらざらしている。試しに手をかけると、冷たさが指先を刺すようだった。

「これが最後の挑戦ね。」

誰に言うでもなく、そうつぶやく。腕に力を込め、足を振り上げる。しかし体は重く、何度やっても鉄棒の上に回り込むことができない。息が上がり、手のひらが鉄棒の粗い感触で赤くなっていく。

ふと、子供の声が聞こえた。振り返ると、小さな男の子が母親と一緒にやってきていた。男の子は何度も鉄棒にぶら下がり、逆上がりに挑戦していたが、うまくいかない様子だった。

「あきらめなくていいのよ。」

母親の声に、私は日記の中の先生の言葉を思い出した。あの頃の私は、その言葉をどう受け止めていたのだろうか。足元の砂を軽く蹴る。子供の姿を見つめながら、もう一度鉄棒に向き直る。

足を振り上げ、体を鉄棒に巻きつけるように動かす。今度は手の感覚がしっかりと鉄棒を捉えた。そして、ようやく、一回転することができた。砂の上に降り立つと、静かな達成感が胸に広がる。

「やったね!」

後ろから聞こえた男の子の声に、私は少し驚いた。振り返ると、彼が小さな手で拍手していた。私は微笑んで彼に軽く会釈し、公園を後にした。

帰宅後、再び日記を手に取った。「逆上がりができなかった」という記述の下に、新しい一行を書き加える。

「今日、逆上がりができた。」

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