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シンセサイザーと100円玉 [ショートショート]

冬の日、彼女は駅前の広場にいた。厚手のコートを着込んだ人々が行き交う中、ひとりの男がシンセサイザーを弾いていた。古びたスピーカーから流れる電子音が、雑踏の中で微かに響いている。彼女は少し離れたベンチに座り、その音楽に耳を傾けた。

通り過ぎる人々の多くは、男の演奏には目もくれない。小さな子どもを連れた母親が足早に去り、カップルが男を横目に笑いながら歩いていく。彼女はしばらくその場に留まり、バッグの中から100円玉を一枚取り出した。財布の中には数枚の小銭しかなかったが、なんとなく音楽の対価を払いたくなったのだ。

男の演奏がひと段落ついたところで、彼女はそっと立ち上がり、男の前に置かれた紙コップに100円玉を落とした。かすかな音がして、彼女の行為に気づいた男が小さく会釈を返す。彼女も軽く頭を下げて、再びベンチに戻った。

しばらくすると、演奏を終えた男がシンセサイザーの電源を切り、機材を片付け始めた。彼女は少し離れた場所から、その作業をぼんやりと眺めていた。ふと、広場の一角で子どもたちが「おしくらまんじゅう」をしている姿が目に入る。楽しそうな笑い声が広がり、それが冬の冷たい空気をわずかに和らげているようだった。

男は機材を片付け終えると、彼女に小さな声で「ありがとう」とだけ言い残して去っていった。

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