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第23回「平成にブレイクした植木等コンサート」

1991年(平成3年)の今日、6月10日、全国縦断してきた「植木等 ザ・コンサート"いろいろあるよいろいろね」のラストステージが、東京NHKホールで開催されました。

パンフレットの中で、志村けんさんは、植木さんに次のような言葉を贈っています。
「ウンジャラゲ」の時はいろいろお世話になりました(植木さんのヒット曲を志村さんがカバーしています)。それにしてもあなたはどういう人ですか。64歳でレコードは吹き込む、紅白歌合戦には出場する、はたまたコンサートはやってしまう。植木等ブームは20数年も前の話、ちょうど僕の青春時代でした。ともすると暗くなりがちな時でしたが、いつかはああなりたいといつも思ってました。なのに昨今のこのブーム、植木さんに対してはブームと形容するのではなく、"永遠のスター"そんな陳腐な形容詞しかみあたりません。
喜劇やコントに限らずどのような世界でも一流の条件は他との格差(オリジナリティー)。植木さんのそのオリジナリティーの源はなんなのですか。切磋琢磨して出来るものか、それとも天性のものなのか、もし天性のものだとするならあまりにもやりきれない。
植木さん、まだまだ続けて下さいコントを歌を、僕らは植木さんの背中を見て追い続けます。大尊敬する植木さん、あの高笑いをいつまでも。           志村けん

1990年11月25日に発売された植木等さん19年ぶりのオリジナルアルバム「スーダラ伝説」が大ヒット。暮の紅白歌合戦に出場し、歌手別最高視聴率56.6%を記録。植木等ブームが世の中を席巻しました。

1991年の年初、東京新宿の紀伊國屋書店CD売り場を訪れると、植木等さんのポスターが大きく飾られたコーナーがあり、CD「スーダラ伝説」が平積みで置かれていました。アルバムに収められている曲の中から、アルバムタイトルと同名の「スーダラ伝説」「二十一世紀音頭」「花と小父さん」もシングルCDとなり店頭を飾っていました。

こうした流れの中で、1991年5月20日の東京新宿ニッシンパワーステーションを皮切りに、全国11ヵ所で、前述の植木さんのコンサートが開催されました。私も、ニッシンパワーステーション、横浜・神奈川県民ホール、大宮ソニックシティホール、東京・NHKホールの4ヵ所でコンサートを鑑賞しました。
6月10日、満員のNHKホール。植木さんがステージに登場した時、観客から地響きのような喚声が上がった時は、長年のファンとして私も感無量でした。
植木さんは、「今日のこのコンサートを開くまでに、なんと64年もかかりました」と観客に挨拶した後、ヒット曲14曲を壮大なメドレーにした「スーダラ伝説」をはじめ、スーダラ伝説に入れられなかった曲を集めた「しじみメドレー」(美味しいけど食べられずに残されるしじみ汁のしじみのような曲たちを集めました)、コーラスのスーダラエンジェルスのメンバーとデュエットした「花と小父さん」、「枯葉」「オール・オブ・ミー」などを熱唱。

入院中の宮川泰さんや、クレイジーキャッツのメンバーもお祝いに駆けつけました。

小林信彦さんは著書「決定版 日本の喜劇人」(新潮社)の中で、この時のコンサートのことを次のように記しています。
NHKホールのロビーで会った、ショーの構成者である河野洋は、この歳になって植木さんの仕事をするとは思わなかった、と笑った。十代から六、七十代までという、不思議な客層で、満員だった。谷啓桜井センリ大滝詠一渡辺美佐の顔が客席に見えた。
舞台と歌と底抜けの明るさが自分の本領とかって語った男にふさわしいすばらしさであった。
終わり近くで「ハイそれまでョ」のイントロが鳴りひびくと、客席のうしろのほうから、う、う、うー、という異様な唸り声のようなものがおこったのに驚かされた。アンコールで、「星に願いを」(作詞植木等・藤田敏雄 作曲萩原哲晶)をうたい、両手をひろげる植木は独特のオーラを放射していた。
終わってから、楽屋に挨拶に行った。
「無責任男がなんとか生きのびてきたわけですよ」植木はしんみりと言った。
「あの唸り声は何ですか?」
「どこの会場でも、ああなるのです」
自分の感想をどう語ったらいいかとまどったぼくは、「まあ、なかなかできないことでしょうが…もう一度、観たい気持ちですよ」と言った。
植木等は突然、のり出して「ほう…営業、イケますかね、まだ?」け、け、け、と明るく笑った。
ぼくはそこで失礼したが、打ち上げの席で、植木が夫人に「これで死んでもいい…」ともらしたと、あとできかされた。
この人の場合、ユニークなのは、営業イケますかね、も、死んでもいい、も本音であることだ。「スーダラ伝説」をうたいあげることで、エンターテイナーとしての植木等は、余人の及ばぬ域に到達したのである。



アンコールで最後にステージに登場した植木さんに、用意した花束💐を、妻が客席から持っていったら、ラッキーなことに植木さんが受け取ってくれ、映像に残っています。これは、私にとって貴重な思い出で、あの雰囲気の中、勇気を出してステージの前まで行ってくれた妻に感謝です。

このコンサートの模様は、CDにコンサートの特典DVDがセットになった「植木等伝説」で見ることが出来ます。

植木さんのコンサートはこれで終わらず、翌1992年にも「植木等コンサート・ツアー'92
今日もやるぞ、やりぬくぞ!
」が全国12ヵ所で開催されました。

6月から始まった最終日の公演は、1992年7月21日、東京厚生年金会館。前年の11月25日に発売されたCDアルバム「スーダラ外伝」に収録された曲をはじめ、ジャズの名曲「マイ・ファニー・バレンタイン」、「ダイナ」などを歌い、ジャズマンの頃の植木さんを彷彿とさせるギター演奏で「ラ・クンパルシータ」「黒いオルフェ」「スターダスト」を披露しました。


当日は雨でしたが、満員の客席で、ロビーでは大地真央さんやしきたかじんさんの姿も見かけました。
このコンサートの模様は植木さんのインタビューと共にNHKのBSで後日放映され、植木さんは好きな言葉を聞かれて、「笑顔」と答えています。
その後も、植木さんの歌手活動は続きますが、
歌手としての最後の公演は、1997年12月24日、名古屋のホテルキャッスルプラザでのクリスマス・ディナーショーでした。これが最後という宣伝は何もなく、2回公演で、私は2回目の券を購入、少し早目に会場のホテルに行ったら、丁度1回目が終わったところで、会場から渡辺プロダクション会長の渡辺美佐さんが、泣いている女性を優しくかばいながら出てこられるのを見かけました。美佐会長がわざわざ名古屋まで来られていたのが気になりましたが、ショーは相変わらず楽しく、満足して帰りました。しかし、結果的にその後、テレビ、舞台で植木さんが歌う姿を見ることはありませんでした。
宝島社のムック「植木等と昭和の時代」の中で、佐藤利明さんは「(植木さんは)平成九年(1997年)、名古屋のホテルキャッスルプラザでのクリスマス・ディナーショーを最後に、平成二年より続けてきた音楽活動を終え、再び俳優業に専念することとなる」と書かれています。


歌手の方が、いつまで歌い続けるかはそれぞれの判断ですが、植木さんの歌は、聞き手に明るさと元気を与える歌で、常に体調万全、パワー全開でないと歌えない曲が多く、100%満足できる状態でやれないと思われた時点で、潔く歌わない決断をされたのかなと思っています。CDや配信などで、これからも植木さんの歌声は聴き継がれていくことでしょう。

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