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読書感想文 : 「武器よさらば」ヘミングウェイ

【今回は、僕が大学3年生の時(ちょうど一年前)に書いた、大学の講義のレポートを掲載しようと思います。タイトルは、「平和は不幸か幸せか」。ヘミングウェイ「武器よさらば」の考察文です。】

1999年公開、ブラッド・ピッド主演、映画「ファイト・クラブ」。地下室で男たちが一対一で殴りあうファイト・クラブを設立し、過激なまでの反物質主義を掲げ、世の中の不条理なものに対し破壊的行為をしながら、男たちは狭苦しい世の中から解放された中で、血に塗れながら、本当の生の感覚を体感していく過程を描いた、キケンながらも今日までカルト的人気を誇る、私の大好きな映画の一つである。ブラッド・ピッド扮するタイラー・ダーデンは、セレブがお金を払って吸引した脂肪から高級ソープを作り出し、セレブはそれにまたお金を払うというなんとも皮肉のこもったビジネスを展開、また、彼自身も、ファッションの存在意義を大いに批判しながら、とびきりお洒落なレザージャケットを着ているという、皮肉と矛盾が詰まった一種の哲学映画だと私は思っているのだが、それはともかくとして、劇中、「有名人なら誰と戦いたいか」と聞かれた彼は、こう答えた。「ヘミングウェイ」。

 ファイト・クラブというものは、世界大戦も、大恐慌もない平和な世の中で、生きる価値を見失った男たちにそれを与える役割があり、つまりは、直接的ではないにせよ、ある意味で戦争に於ける美徳を見出している。もちろん、戦争を推進しているわけではなく、ただ反物質主義を掲げているため、そこは勘違いしていただきたくはないのだが、そんな血気だった男が勝負の相手に、ヘミングウェイを選んだのは、何故だろうかと考えながら、この筆を執っている。

 彼の代表作の一つ「武器よさらば」。主人公のフレドリックは、前線で重傷を負い、回復したのちも前線に戻るが、戦争の不条理さに直面した時、脱走し、恋人のキャサリンとスイスに逃げ込むという物語で、全体的な印象としては、戦争の残酷さ、理不尽さが読者に伝わる反戦作品となっている。その主人公フレドリックが一人称で描かれていて、読者は思わず彼になりきってしまうのであるが、実はこの男が、愚か者なのである。その愚かさの対称に存在するのが、キャサリンだ。彼女は、何かと情緒不安定で、聞いているこっちもうんざりするような甘ったるいセリフを繰り返すのであるが、所々、彼女の聡明さがうかがえるところがある。代表的なのが、第21章で、シェイクスピアの「臆病者は死ぬ前に何度も死ぬ。勇者はただの一度しか死を味わうことはない」という言葉に対して、その人はきっと臆病者で、勇敢な人のことはなにも知らないのだと、批判していた。また、第38章に於けるフレドリックへの繰り返しの問いかけの中で、ずっと恋人といるよりも、時には違う誰かといた方が良いこと、なにもしないことがつまらないことを問いかけている。恋に盲目なフレドリックは、そんなことないともちろん返すのだが、このやりとりを客観視した時に、彼に比べて彼女がいかに「目の良い盲目」だったのかが一目瞭然である。

 私は、このキャサリンこそに、ヘミングウェイは自らの魂胆を託しているのだと見た。小説というものは概して、主人公にその作者の思いが乗っかっているように思われがちだが、実際は敵や悪者に乗っかっていたり、今回は追いかける存在である恋人に最も多くの比重で乗っかっていたりと、あらゆる場面に、そして名作ともなると全ての文章、一語一句に、その作者の思想が詰まっているものなのだ。すなわち、ただ漠然と目の前を生き、「正しい」反戦思想を掲げながら平和を求め孤軍奮闘する主人公ではなく、人間そもそもの姿としての恋の奴隷となりながらも、いつかはすべて散ってゆく、その儚さを悟ったキャサリンに、本当のヘミングウェイが存在するのだ。

 先ほど、私は主人公を「ただ漠然と目の前を生き」と言ったが、この小説を読んでいて最も痛烈に思ったことは、情景描写の異常なまでの長さだ。第二次世界大戦前の時代に描かれた小説であり、今日ほど映像や情報といったものが出回っていなかった時代であるため、その分、読者が情景を想像しやすいようにしているであろうことは明白だが、それにしても、とにかく長い。

 この長い情景描写、一見はどれも一様に見えるが、実はここに戦争の「美徳」と言えてしまう事実が、作者の意図せぬ形式を経て現れている。ここで本題の、「平和は不幸か幸せか」というキケンな内容に入ってゆくとしよう。

 まず、前線、負傷、逃亡、戦争により命がキケンに晒されているシーンでの情景描写であるが、こちらは、目の前の景色が、まるでそのまま体内に染み込んでくるように、鮮明に描かれている。その一方で、平和に包まれている時、特にキャサリンと過ごしている時だが、目の前の景色が、ただそれとして目の前を通り過ぎてゆき、体内には決して入ってこないために、とても無機質に描かれている。

 さて、まずは前者であるが、特筆すべき感覚が、嗅覚である。戦争という危機の状態にあって、主人公はあらゆる(その大半は不快な)匂いを嗅ぎ取り、否、ヘミングウェイは、この経験を思い出し描き起こす時に、嗅覚の記憶とともに描かずにはいられなかったのである。第30章、見つかれば殺される恐怖と危険の中、彼は干し草の匂い、乾燥した牛糞の晴朗な匂いを、この状況下で痛烈に記憶し、そしてわざわざ記した。無論、こういうからには、平和なシーンでの、嗅覚の描写は全くないのである。上等な料理、ワイン、そして美しい街並み、さぞかし良い匂いに包まれたことであろう、しかし彼はその経験の記憶がなかったのだ。もちろん、嗅覚はめぼしき例の一つであって、この事例は他にもある。五感の中でも、特に聴覚と触覚の記述は多く、確かに過酷な環境の中であったから、それは当然のことなのであるが、ヘミングウェイはその体験から幾年か経った後に思い返して書く時にわざわざ盛り込んだのであるから、記憶に残る相当な感覚の経験だったのであろう。

 そのため、平和なシーンでの情景描写は極めて退屈だ。街中のどの、どんな人が、どんな感じで何をしている、朝何時でどんなお店が開いている、私はこれこれこうした、そしてああして、こうした、など、ただ目の前の事象を並べているだけで、自らの体験というものが全くないのだ。極め付けは、キャサリンとの子が生まれた時に、その赤ちゃんを見ても、「何の感情も湧かなかった」と言っている。これは恐らく、実際は死んでいる赤ちゃんを見ての感覚であり、その伏線となっているのであろうが、平和の頂点と言えるタイミングで、彼は何の感情も持たなかったのだ。ちなみに、彼の同僚が目の前で死んだ時も、彼は同じような状態に陥っている。そして、脚を負傷し、激痛に見舞われている時も、己の感覚の描写は一切なく、ただ周りの会話が淡々と描かれているため、極限の状態では、人間はそもそも何の感情も抱けなくなるのかもしれないが。

 さて、ここで本題に帰結する。「平和は不幸か幸せか」。ここでは今の私たちが考える幸せではなく、人間そもそも、縄文人なんかを想像していただきたいが、一生物としての幸せを考えた時に、この問いかけの本筋に、そして私が冒頭にわざわざファイト・クラブの話をした所以がわかっていただけると思う。

 戦後の日本文学を牽引した一人、坂口安吾は、戦争での破壊を愛していた。戦争に美徳を見出していた。そして、戦後、「堕落論」という傑作を世の中に発表した。さて、私がいよいよキケンな論を発表する前に、はっきりと申し上げておきたいことは、私は戦争に賛成しない、むしろ反対をする。戦争などこの上なく愚かなものであり、人類は戦争を避け、やめなければならない。なにより一日本国民として、核廃絶を唱え、より多くの人が平和に過ごせる世界を願っている。しかし、戦争によって、文化的とも、最も非文化的とも言える人間の本能が覚醒し、そこに人間としての生きる価値、それゆえの一種の「幸せ」とも言えるものが生じることを、私は否定することができない。

 何の感覚も記憶に残らない、所謂平和ボケした生活が、本当の幸せなのだろうか。恋の奴隷となり、盲目となり、閉じこもった世界に淡々と肩狭く居る生活が、本当に幸せなのだろうか。ヘミングウェイは、反戦を唱えるのではなく、武器に別れを告げた人間の、行く末のない空虚な「幸せ」を描き、私と同じように反戦の思想は持ちながらも、戦争に於ける人間の本当の幸せを無自覚に見出し、その美しさを思わぬ形で表現してしまったのだ。そう考えると、今の時代を生きている私たちが考えている「幸せ」とは、戦争のない社会の中で、その社会という巨大な生物が作り出したものに過ぎず、本能に従った「幸せ」は、私たちが「不幸」だと思っているところに内在しているのかもしれない。さて、この論は正しいか、それとも、主人公は戦争という悲劇の中で本来の人間としての感覚や感情を失い、幸と不幸が逆転してしまい、それに私が気づかずに愚劣な論を雄弁しただけか、私には判断出来兼ねる。

参考文献

アーネスト・ヘミングウェイ、武器よさらば、新潮文庫、2006年

坂口安吾、堕落論・日本文化私観他二十二篇、岩波文庫、2008年

デヴィッド・フィンチャー監督、「ファイトクラブ」、ブラッド・ピット主演、1999年

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