帝都・東京のロマンチック−旧前田家本邸
僕は関西に住んでいる。たまに東京に行くこともある。僕はミステリー小説が好き、というか江戸川乱歩の小説が好きだ。東京に行くと、明智小五郎が活躍した帝都・東京を自分も歩いているつもりで、街を歩く。我ながらおめでたいとは思うのだが、僕にとってはそういう歩き方が楽しみの一つでもある。まあ、僕にとっては聖地巡礼の一種かも知れない。探偵小説の影響もあってか、僕は近代日本の「洋館」というものに並々ならぬロマンを感じてしまう。
その日はあいにくの雨だった。東京行きに合わせて、予定は2カ月ほど前から立てていた。僕は普段は予定を立てないのだが、前もって予定を立てたときは雨の日に当たることが多い。たまたまなのだが、実際に数えてみれば多いことに間違いはない。
10月に入って暑さは少しましになった。その日は雨雲のおかげもあってか、暑さを感じることはなかった。傘を持って歩くのは面倒ではあるが、蒸し暑いよりははるかにましだ。駒場公園近くのコインパーキングに車を停め、数分歩いくと目的地に着いた。
洋館、駒場公園と聞けばすぐにわかる人も多いだろう。そう、旧前田家本邸だ。正門から敷地に入る。傘に落ちる雨音と自身の足音以外に音のない森閑とした空間。木々の隙間に見え隠れする灰青色の尖塔に雨もよく似合う。古い探偵小説の舞台として違和感のないロケーション。
正面の車寄せから邸内に入る。土足禁止、ここで靴を脱ぐ。入館は無料。雨のせいなのか、そうではないのか来館者の姿もまばらだ。
玄関を入ると、赤い絨毯が敷き詰められた階段広間がのびる。天井のシャンデリアが発するやわらかな光はまぶしすぎず、当時の人々が見たであろう光景を僕も見ている気がした。
この邸宅は加賀藩主前田家16代当主の前田利為侯爵(1885-1942年)の居宅として、昭和3(1928)年から昭和5年にかけて建設された。
前田利為は若い頃からヨーロッパに私費留学、昭和2(1927)年には駐英大使付武官として渡英という経歴からも想像できるが、海外での生活に慣れた方だったようだ。昭和5年に帰国、ここ駒場本邸で家族とともに暮らし、英国田園地帯を思わせる閑静な駒場での生活を楽しんだようだ。太平洋戦争が開戦すると、昭和17(1942)年、ボルネオ守備軍司令官として戦地に赴き、同年その地で戦死した。
鉄筋コンクリート造、地上2階、地下1階、建築面積978.25㎡、延べ床面積約2930㎡。邸が建つ駒場公園(旧前田家本邸の敷地)の面積は40396㎡。加賀100万石の大大名の邸宅と言うにふさわしい規模だ。
ちなみに、100万石というものが現在のお金で言えばどれぐらいの富なのかをネットで検索してみると、1万石が27億円相当と出てくる。このほかの数値も出てくるし、時代も違えば価値も違うわけで単純に換算はできないとは思うが、年商2000〜3000億円程度だろうか。ここには家臣への俸禄も含まれているし、すべてが大名の収入ではないのだが、廃藩置県後は藩収入の10%が支給されていたようで、年間200〜300億円程度はあったのかも知れない。実際のところはこの額よりも多いのか少ないのかは僕にはわからないが、相当なお金持ちではあっただろう(このあたりの事柄には間違いもあるかも知れない、そのときはごめんなさい)。
玄関前の広間の大階段。玄関扉を開けた者の目を引いたことは想像に難くない。この大階段は見事なカーブを描き、来館者の視線を2階へと誘う。分厚い手すりには丁寧な彫刻がほどこされている。この日は雨だったこともあるのか、ほんのりと優しい光を放つステンドグラスを正面に見ながらのぼること7、8段、重厚な階段は左側に90度曲がり、その重さを感じさせることもなく2階へと続く。圧巻だ。
1階には大客室、小客室、サロン、大食堂があり、主に来賓、外の人のためのフロアという印象だ。ロの字形をした2階。この階には書斎、寝室、浴室、夫人や子女の部屋がある。このフロアは、前田家の人々がかつて確かにこの館で日常生活を営んでいた香りがする。近代日本を彩った上流華族の生活に思いを巡らせながら、邸をあとにした。
利為侯の戦死後、邸は中島飛行機(現在のSUBARUの前身)社長の中島知久平の手に渡り、戦後はアメリカ極東軍司令官の官邸として接収された。現在は東京都が洋館を管理し、公園を目黒区が管理している。敷地のすぐ隣には現代の若者らが青春を送る東京大学駒場キャンパスがある。渋谷の駅にも徒歩20分ほどで着く。あるじ亡きあと、屋敷は紆余曲折を経ながらも、その広大な敷地とともに、建てられた当時の姿をほぼそのままとどめているそうだ。昨年11月、18代目当主の利祐氏から長男の利宜氏へと家督が譲られ、加賀100万石の前田家もまた存続していることをつけ加えておこう。