作品はあなたの向こうからやって来る
作品はわたしが描いているが、わたしが描いていないとも言える。作品のなかにわたしはもういない。そもそもいたのかどうかも分からない。しかし一瞬いたともおもう。今はまた別のところにいるんですが。わたしはあなたの向こうにある何かを見えるように作品にして表現したいのです。それはあなたを導くための瞬きにすぎません。今、作品のなかにいるのはあなた自身。と、そう何処からともなく聞こえてきたのです。
あなたは今、絵の前に立っている。映画ではないから、いつでも立ち去ることもできる。(映画だって途中で退席出来るけど。)すぐに立ち去れば、どんな傑作でもあなたにとって無に等しい。しかしちょっと佇んでみる。作品から受け取るさまざまな感じがある。注意深く観察してみるとあなたのなかから湧水のように感覚が生まれてくる。第一印象としての快不快。美醜。技術の上手下手。でもそこではない。
もう少し観ていると、先ずは言葉にならない感じがあり、そして言葉が生まれるような気配を感じとる。でもそれを感じとり始めていることにあなたはまだ気がついてはいない。意識が先か後か。ひとつひとつ繊細に言葉が生まれる感覚を楽しむ。そう、感覚で良いんだ。それは何処からやってくるのだろう。あなたはあなたの中からそれがやって来ているのとは少し違うと気づく。そうこうしているうちに今度は血が巡っていることがはっきりと分かる。少なくともわたしにははっきりと分かる。人はそれを体調という。新たな身体に成るための細胞の赤子が生まれている、無数に。身体の調子は時間とも直結している。そして身体が時間なのだと知る。過去の記憶も蘇る。それは幻となった過去のあなたと、今のあなたは全く違うけれど、それは同時に未来へ繋がる予感もともなって、時間と人間は全て繋がっていることを知る。本来、過去も未来もない。記憶と記録は微々たる電気信号ですか?
時間とは人間そのものです。
予めあなたはここでそう思うこともあなたは本当は知っていた。デジャブのように。猫の表情を思い浮かべれば分かる。自然な振る舞い、好きなように生きる。好き勝手に観ている。そしてふと立ち去る。
山頂付近で感じる空気と汗。湧水を口にふくみ、草花の朝露に触れる。それが瑞々しくておもわず生き返る。 朝日が地平線から再びあなたを照らし、素足の周りの砂を連れ去る波。重力が歪む。感覚が過剰になる。永遠に繰り返すかにみえる無為無常。自ずから然る諸行無常。
あなたのなかに猫も山も海も湧水も草花すらも全てあることに気づく。あなたも自然でまた時間だと知ると、それらが血と共に巡り逢ってメロディを奏で、リズムを刻み、共鳴してハーモニーも連れてやってくる。作品の前に立っているだけなのに、もうあなたは音楽を奏でているのではなく、音楽そのものに成っている。ここまでくればあなたは自在な存在。その想いは天の川銀河の中心、ブラックホールだって突き抜ける。あなたの想像力は宇宙の広さよりも遥かに広い。それは夢のようで夢ではなく、幻のようで幻ではない。
さあご一緒に、審美眼を鍛えて心の羽根を生やし何処までも飛んでいけるんです。身軽な身体で極楽至上。
今日も行ってみよう、あなたの行きたいところへ、あなたの向こう側へ。
逸話:レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)の作品「ユダヤの花嫁」を前にしたフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)が、「この絵を1週間見続けることができるなら、10年寿命が縮んでも惜しくない」と言ったという逸話も残されている。
写真は、恒星の水墨画シリーズ主題名
【向こう側へ Come From Over There】
左から副題名
「*メヘルガル母子像 Mehrgarh mother and child」
「仏陀Buddha」
「霊魂Heart」
*メヘルガルはインダス文明の発生よりも古い遺跡。恒星は18・9歳からその造形に魅せられてきた。
和紙に墨、98x64cm(手漉き和紙のため誤差あり) 2023年9月制作