表現しながらおもうこと。 表現することとは、いったん境を限定してから、それを解放する道筋だと気がつく。 良い流れから圧へと、その逆の圧から流れへ戻る、循環するということですが、それが解放するということですね。それは意識では出来ないです。しかし、意識しながら道具(身体も含む)を使い鍛錬しつづけることで、その解放の流れが自然と立ち上がったときに傑作といわれる表現に成るのだと思います。境とは、変わり目・境目・見えないところです。環境的なことを作って、環りの境を一切合切取り払う。融合
お袋の味が尊い、勝る者なしと投稿してまた考えると、やはり誰かの為に作ること、その物には不思議と普遍的な漲る活力があると気付く。ゴッホのひまわり🌻もゴーギャンを歓迎する為に描かれたわけだし、他者や友人、家族、自分以外の為に作ることの尊さが大事なんだなぁと思っています。 芸術家も目の前の事物、物事から果ては遠い未来へ想いを馳せてつくる場合が殆どだと思う反面、全てのことに対して全く意識しないことを「自然融合」と名付けた場合、それその時、必然だけど偶発的に表出した物が良い事物、作品
芸術の本来性を追求すると、絶対はもちろん普遍性をも実は度外視している。 哲学や科学、数学、物理学、それらは絶対的な真理や究極の叡智を目指しているところがあるが、やっぱり芸術はそこだけを追求しているわけではないなと。さらに言えば、言語化出来ないもの、見えないもの、不可能性、そんなものたちすらも吹き飛んでしまう何か。宇宙的な本来性の海を、ただぷかぷかと遊泳する行為だと思ったんです、ふと。 そもそも芸術なんてものはなくて、ただただ生活があるだけですからね。でも、その生活のなかに
これ、単に無我夢中を反対にしてみたんですけど。合理化、安全便利快適に慣れ過ぎたヒトや、マジで社会の枠組みの中でしか生きていないヒト、妙な大人はこれに入るのではないでしょうか。端的に言えば自己中です。他者に聞く耳をもたない忘我無中人、そう言い換えても良いでしょう。 華道など、実は〜道は崇高な物でもなんでもなくて、矛盾をどう捉えるか、自然をそのままの状態で活かす。ほぼ不可能なことをどうにかやってみようという試み。中川幸夫氏の華は正に衝撃でした。道=日常そのものでしょうし、自然の
個展を開くと鑑賞者にたまに聞かれることのトップ10に入る「何か伝えたいメッセージなどがあるのですか?」という質問。今ならはっきり言えますが「伝えたいことは全くないです。」伝えたいと思って描いたことはないなぁと。今、わたしといわれている身体に伝わってきたことを、感じ考えてから、紙なり、音、身振りに変えて表出しただけなのですよね。 気持ちと物質の編集・実験過程でしょうか、言うなれば。 でもやっぱりそのこともよく分からない。簡単にいえば、正気を保つために描いているともいえます。
これから書く文は、絵を描いていないときに思いついたまま書いただけのものです。特段為になることなど何もありませんので、本当にお暇な時にだけ、お付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。 自由意思がないというのは確かにそうで、ネットの出現で情報が民主化したとはいえ、アルゴリズムで勝手にお勧めされるものを観ている限り、自分で選んでいるようで全く選んでないですからね。 ネットのない時代でも目の前の環境に左右され、依存せねば生きられないといえば、外界に主導権があり、今と変わらないと
きっとあなたも見たことがあるだろう。 それをある日の朝、またわたしも見たのである。なんのことはない、中空に浮く葉っぱである。見ると風で勢いよくクルクルと回転している。寝ぼけ怠けた身体に、軽やかな自然からのカウンターパンチ。そんな大袈裟なパンチではなく、知らぬ間にジャブをくらった感覚。(だからこそ後々効いてくるパンチなのだ。)何故、中空で葉が回転しているのか。その不思議さ、面白さに、ジャブを受けて心地良いというパラドックスを感じながらしばし凝視する。朝日の斜光に照らされて、そ
タルコット・パーソンズは 「表現は目的があって分からせる為にある。表出はエネルギーの発露」と言っているそうで、読んだことはないけれど。 近年、表出のワードは自分の中で出てきていて、表現との違いについて自分なりに考えていたので、上の言葉が引っかかった。 数ヶ月前まで自分が考えていたことは、人は何かしらの表出をしている。目の瞬き、独り言、発言、発話、歩行、家から出る。全て表に出ていることであると。喧嘩する時に、「表へ出ろ」も先ずは外へ出ないと始まらないと。無闇に喧嘩はするものでは
小生、恒星とヨシズミ トシオは2004年からアートプロジェクト「a ri A Ru Creationz」(以後ありあると記述)を始動しました。メンバーの個展を軸に、総合パフォーマンス公演やワークショップ、異業種交流会、海外のアーティストの展覧会を茨城県古河市の文化施設を中心に埼玉県立近代美術館、北関東に於いて70回開催してきました。今書きながら気がつきましたが、今年は20周年目でした。そんな節目にたいへん有り難く貴重な出来事が起きましたので、ご紹介したく筆をとっています。(
時折、誰かと話しているときにふと気になることがあるのですが、それはその人の発言や振る舞いから、その人の立ち位置、立場を感じるときです。そもそもそれらは何でしょうか。学生たちと一緒に考えてみました。先ずはその人が今、置かれている環境によって決まってくるもの。学生という立ち位置、立場です。そして学生でありながら、家に帰ったら兄弟、ひとりっ子という立場もあります。ぼくはまだ子どもです、と発言した生徒。どこまでが子どもで、どこからが大人なのかは曖昧ですね。法律上は十八歳ということに
相手との関係性、言い方にもよりますが、「お前さぁ、つまらないことを言うよねぇ」なんて言われたら、少し凹みますよね。悲しくなるし、ちょっとカチンときてしまうかも。親しい間柄なら、愛ある冗談にもなるかもしれませんが、言葉は諸刃の剣です。愛ある冗談とはいえ、私はあまり好きにはなれません。しかし、実はつまらないことに価値があり、面白味もある。さらには、余裕まで感じられるようになったら、ちょっと見方が変わりますよね、最低が最高になるかも!?そんな可能性もあるっていったらどうですか?ん
「本番当日の目覚めで決まる。」パフォーマンスの朝が重要です。というより目覚めた瞬間にほぼやるべきことが決まります。決めたことをやるのは私のパフォーマンスではないので、そういう意味ではなく、明確に自分と世界が繋がった自覚があるってことなんです。注意していないと、すぐにヒトは世界、自然と分離してしまいます、心が。睡眠は本来あるべき姿へ戻す行為だと思います。忘れるべきことはすっかり忘れるのも重要です。それを全自動で睡眠中にやってのける脳は天才だと思います。要は寝てる時に整理されて
朝6時、重い身体を引きずりながらゴミ出しのため外へ出る。年々徐々に記憶力が低下している自覚を余所に、身体に溜まった疲労だけは夏の猛暑の記憶をはっきりと刻んでいる。記録的な猛暑がまるで嘘であったかのように、秋晴れが身に沁み入る。チュンチュラチュンと数羽の小鳥たちが朝の会話を愉しんでいる。真っさらでどこまでも透き通った青空に鳥の囀りはあまりに完璧にまでに溶け込んでいる。目を凝らして見てみると顎から腹までが黒い四十雀だ。4〜5羽かな。軽快な身軽さで、桜の枝から枝へ気持ち良さそうに
世界的に猛烈な暑さに見舞われ、大火災や地震、洪水など今年も大変な被害が出ている2023年。一言に異常気象と片付けられない何か大きな流れを感じます。仏陀の四苦の苦の語源はパーリ語やサンスクリット語の仏教経典の原典で用いられているドゥッカ(dukkha)、思い通りにならないという意味だそう。自然はおろか、自分自身も思い通りにはいかないものですしね。(空しい、不満、不安定、苦しいと意味もありますが) 昔、「風が吹けば桶屋が儲かる」と言いましたが、近年聞かれるバタフライ・エフェ
作品はわたしが描いているが、わたしが描いていないとも言える。作品のなかにわたしはもういない。そもそもいたのかどうかも分からない。しかし一瞬いたともおもう。今はまた別のところにいるんですが。わたしはあなたの向こうにある何かを見えるように作品にして表現したいのです。それはあなたを導くための瞬きにすぎません。今、作品のなかにいるのはあなた自身。と、そう何処からともなく聞こえてきたのです。 あなたは今、絵の前に立っている。映画ではないから、いつでも立ち去ることもできる。(映画だ
現在私恒星と、アーティスト カナで開催している「星座を歩くアートクラス」は茨城県古河市において、園児から大人まで、絵画(水彩画)制作を中心に開講しております。 絵画以外にも、工作、そして現在中学生と高校生は美術系へ進むためのデッサンや絵画の制作も行っております。さらに映画の道へ進みたい高校生とは、今、シナリオを生徒本人が考えながら、映像の撮影もしました。講師の恒星とカナも、パフォーマンス作品の映像作品の制作、高校生に触発され恒星自身も現在小説を書き始めております。