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恒星の考える表出と表現とは

タルコット・パーソンズは
「表現は目的があって分からせる為にある。表出はエネルギーの発露」と言っているそうで、読んだことはないけれど。
近年、表出のワードは自分の中で出てきていて、表現との違いについて自分なりに考えていたので、上の言葉が引っかかった。
数ヶ月前まで自分が考えていたことは、人は何かしらの表出をしている。目の瞬き、独り言、発言、発話、歩行、家から出る。全て表に出ていることであると。喧嘩する時に、「表へ出ろ」も先ずは外へ出ないと始まらないと。無闇に喧嘩はするものではないが。そうした日常の表出が上手く出来なくなっているのが、この現代の何でも同じにする社会なのだと。わたしは違うと感じているにも関わらず、それを発言すら出来ない空気が蔓延してるんですね。そうすると、つまるわけですよ。排水口がつまるのと同じで。流れなくなると、そのおもいが溜まる。溜まっていることの自覚がなく、そのうち蕁麻疹などの症状が身体にまで出てしまう。心身の健康のためにも人は、何かしらの表に出さないとバランスを崩すことは間違いなく、それが色んな精神疾患の病名にもなっているのだろうなと。

だから、たわいもない友人同士のお喋りがいかに大事かぎしみじみ分かってきたんですね。無駄話は全く無駄ではないのですよ、内容があろうがなかろうが。
一見内容がありそうな表現って、実は中身がないことの方が多いような気がします。アートの作品自体に魅力がないものはそれです。作品のコンセプトやスタートメンとはいかにもなものですね。

表に出すことと同義なのが、何かモノを作ることなんだと、気がついたわけです。黙ってモノを作っていることを表現などとも言いますが、そうではなく、それも先ずもって一種の表出なんだなと。

数ヶ月前までの考えでは、表出の数に支えられて、その上に表現にまで高まると思っていたのですが、そうではなく、あくまで、表出を数やっている中で、たまたま表現にまで高まってしまった作品が生まれる感覚だなと。表出という一瞬生まれる泡はすぐに割れて消えていくけれど、持続して一定期間残る泡が表現だなぁ〜と。諸行無常で有るものは最後は消えてゆくけれど、それも姿を変えただけで、全く消えたわけではないと。表現にまで高まった作品は、後世の人たちへも伝えるために、複製してまで残そうとする行為も表出の一種でしょう。

それの繰り返しの行為が芸術鑑賞者の大きな役割りで、それは作品を作った人と同化する、共鳴する行為でもありますね。その流れを文化と呼んでといるのだなと。

なので、気にせずに表出し続けていれば、自ずと良き表現が目の前にあらわれるのであって、なぜ継続が大事かといえば、そういうことだと切実に感じています。

お読みいただきありがとうございました。
感代謝

恒星
a ri A Ru Creationz 藝術企画
星座を歩くアートクラス

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