『レディ・プレイヤー1』という、マーケティング的オーバードーズ作品
『Ready Player One』★★・・。(4ツ星満点中、2ツ星。)
ルール:「答え合わせ」は「作品」と「個人」を切り離します。話すのは前者についてのみ。後者への批判は目的にないです。
2011年に出版された同名の原作を、スティーブン・スピルバーグが監督・プロデュース。日本発のアニメやゲームを含む80年代のポップカルチャーをふんだんに盛り込み、2045年の近未来人たちが唯一自由を享受できるという設定の「仮想空間」を舞台にした近未来SFアドベンチャー映画。
スピルバーグの大作路線は『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』(2011年)でも『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』(2016年)でも失敗し、深い興行不振にあえいでいた。4月19日現在でアメリカ国内$118M弱、全世界$485Mを叩き出している本作は、ドラマ路線に追いやられていたスピルバーグ御大を「ブロックバスター路線」へと引き戻すきっかけを生み出している。
そんな大監督の大作映画が毎回CGだらけなのは、皮肉といえば皮肉だ。
[物語]
2045年、アメリカ。地政学的な事件の頻発により、世界中がスラム化してしまった近未来。人々に残された唯一の救いは、あらゆる願いを値札付きで実現してくれる超VR仮想空間「オアシス」だった。ある日、このゲーム空間を開発した天才プログラマー、ジェームズ・ハリデイは、自身の遺言ビデオに「オアシス内のどこかに3つのカギを隠した」ことを伝える。すべてを揃えた者には、$500Bの財産と「オアシス」の管理者権限を譲渡すると宣言。かくして全世界を巻き込んだ宝探しがはじまった。
それから5年。オハイオ州コロンバスのトレーラーパークで暮らす「パーシバル」ことウェイド(タイ・シェリダン)が、誰も探し当てられなかった「ひとつめのカギ」に手を伸ばす。
[答え合わせ]
『レディ・プレイヤー1』は中身も舞台裏も、思っている以上に変わり種だ。
80年代のポップ・カルチャーをふんだんに盛り込んだ同名原作の映画化だけに、数えきれないほどの権利処理をこなさなければならないハードルの高さ。その難関の手続きを業界一のビッグネームのスター・パワーを利用して解決させようという、パッケージングのビジネス感の強さ。原作者自らが劇場版の脚色に携わるという、ソース・マテリアルと映画とのまれな近しさ。その一方で、原作要素は基本設定と登場人物たちの名前以外、ほぼカケラも残っていないという、換骨奪胎な完成品のあり方。
これはアニメや漫画の映像化に湧く日本のコンテンツ界にとっても、興味深いケース・スタディになり得る映画だ。なぜなら、作る側は「スピルバーグ作品であることの価値」と「スピルバーグだからこそ成立し得たポップカルチャーをメタ的に扱うアイデア」とを建前にして、観る側に原作のエッセンスを含む数多のチェックポイントを暗に素通りさせようとしているからだ。
つまり、騙くらかされる。
めくらましの術は多彩だ。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンも、『AKIRA』の金田バイクなんてものも登場する。目を凝らせばロボコップだって、『ストII』のリュウや春麗、オーバーウォッチのトレーサーだって画面に映り込む。フレディ・クルーガー、ジェイソン、チャッキー、HALOのマスターチーフ、バットマン、スタトレ、キティちゃん。キング・コングも、アイアン・ジャイアントも、果ては機動戦士ガンダムRX78-2まで。
隠し要素と、型破りにメタなカメオ出演はあげればキリがない。どんな隠し玉が登場するかについては、すでにネットに上がっている各種の動画やコラム記事を読めばわかる。
言ってしまうと、本作の取り柄はそこにあって、そこにしかない。だから、この点に満足できるかどうかが印象を二分する。
数々のオマージュ要素は、スター監督による「ソツはないがCGだらけ」なストーリーテリングのぞんざいさをごまかすためだけにあるようなものだ。CGなしのプラクティカルなシーンたちはある種、キャンピーな80年代のスピルバーグ作品を良い意味でも、悪い意味でも踏襲している。やさぐれたアリスおばさんと、その恋人との家庭内のいざこざを描く序盤のシーンが良い例だ。ブロッキング感が甚だしくて、白ける。狭いトレーラー内の立ち回りを工夫したかったのか、長回しで撮りきったドラマは軽く、そして薄い。
2045年の世界の具体性のなさも、都合がいい。若者が60年以上前のポップカルチャーに心酔している世代的ギャップも、信憑性に欠けるのが現実的なところだろう。オキュラス的なゴーグルで没入するVRの概念自体にも、時代遅れ感がある。原作が登場した頃であれば新鮮味のある技術だったのだろう。いまや「ゴーグルの次は何か」というご時世だ。時代が追いついてしまっている。
これら肝心の物語部分の欠陥は、いずれも脚色のあり方に原因がある。
この映画、原作改編の限りを尽くしている。基本設定以外、ソースマテリアルが影も形も残っていないのだから、興味深い。ポイントは、プロットのフックや進行方法が変わっているだけではないことだ。VR空間の存在意義や社会的な機能、主人公が全世界のユーザーたちを出し抜いてゲームをリードできた背景に至るまでが、原作と映画とでは完全に異なる。組み立てられたトーンが違う。映画の簡易化ぶりが強烈だ。
この脚色を原作者自らが遂行しているのだから…そう、変わっている、としか言いようがない。
数々の懐かしいレファレンスに喜べる世代なら、それなりに満足するのも手だ。とびきり楽しめるシークエンスも中盤に待ち構えているから、個人的にも楽しめた。しかしそれで終わりにして良いものでもない。なにより「原作信者」が些細な「改変」にも目くじらを立てて猛り狂う邦画界のファン文化に浸かっている方々は、本作の「ハリウッド的」厚かましさにも目を向けるべきだろう。
世の中は概ね好意的に受け取っている。
「ヲタク世代なんてチョロい」なんて思われていたら、癪じゃないか。
ただ、物語が「オアシス」創設者ハリデイ(マーク・ライランス)の象徴する「子供ごころ」に払う好意と敬意は感じ取って良い。それが本作の収穫だと受け取るなら、それも正解だ。
[クレジット]
監督:スティーブン・スピルバーグ
プロデュース:スティーブン・スピルバーグ、ドナルド・デ・ライン、ダン・ファラー、クリスティ・マコスコ・クリーガー
脚本:ザック・ペン、アーネスト・クライン
原作:アーネスト・クライン
撮影:ヤヌス・カミンスキー
編集:マイケル・カーン、サラ・ブロシャー
音楽:アラン・シルヴェストリ
出演:タイ・シェリダン、オリヴィア・クック、ベン・メンデルソーン、T.J.ミラー、サイモン・ペッグ、マーク・ライランス
製作:ワーナー・ブラザース、アンブリン・パートナーズ、アンブリン・エンターテイメント、ヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズ、デ・ライン・ピクチャーズ、アクセス・エンターテイメント、デューン・エンターテイメント、ファラー・フィルムズ&マネジメント
配給(米):ワーナー・ブラザース
配給(日):ワーナー・ブラザース
配給(他):N/A
尺:140分
北米公開:2018年3月11日
日本公開:2018年4月20日
鑑賞日:2018年3月30日17:30〜
劇場:Pacific Theaters Glendale 18
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