『デューン: 砂の惑星 PART 2』:超級大作映画による娯楽と芸術の両立
『Dune: Part Two』(2024年)★★★★。
難解なものを、難解さを残したまま、見たいものにする。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの『DUNE 砂の惑星 パート2』が1.9億ドル(およそ288億円)の超大作映画で冒険しているのはこの点だ。
プロット上、疑問符が確実に上がる些事にはじまり。箱に手を入れると何かの適正が見られるとか、人間コンピュータが脳内でいろんな計算ができるとか(これは考えてみれば50-60年代の昔に戻っただけだけど)、全身を包むスーツが老廃物から水分補給を半永久的にしてくれるとか。
世界観の主柱でありながら視覚的に証明することが難しい大原則まで。晒されると目が青くなったり幻覚を見たり、超空間宇宙航行を可能にしたりという万能資源「スパイス」の原理とか、過去と未来の両方を見ながら政治を操る宗教団体の能力とか。
辛抱強い鑑賞者でもかろうじてついてこられるペースと分量の限界を狙った、エクスポジション(解説)。それを適切なプロット進行と織り交ぜて展開する。その、狙いどころの正確さがヴィルヌーヴ監督作品の妙だ。
言い換えると、この難解な原作を3時間弱の映画に落とし込むにあたっての優しさが、作品を裏打ちしている。「画」と「音」の膨大な情報量を、飲み込める程度に処方してくれている。
『パート1』は、そんな風呂敷を広げる大役を辛くも実現した。いや、わからないことも多いのだけど、納得したくなる説得力があるのだ、何事も。『パート2』は、広げた風呂敷の上に豪勢な料理を並べる。宴会花見の時間だ。
物語
砂漠の民フレメンと行動を共にする権利を、決闘で勝ち取ったポール・アトレイデス(ティモシー・シャラメ)。母ジェシカ(レベッカ・ファーガソン)と共にゲリラ活動に従事し、砂漠の惑星を武力制圧したハルコンネン家に抵抗する。
その勇猛さでフレメンの信頼を勝ち取っていくポールと、それに惹かれるチャニ(ゼンデイヤ)。熱狂的な信奉者となるスティルガー(ハビエル・バルデム)に、その他のフレメンたち。一方、ジェシカは試練を乗り越え、求められるままに預言者の長となる。裏では常に、秘密結社ベネ・ゲゼリットで培った能力を活かし、息子ポールの躍進のために動く母。
惑星制圧後のハルコンネン家はフレメンの撲滅に動いており、全面対決の時は近い。破滅の未来を予知するポールは、示される道に逆らいながら、フレメンに勝利をもたらすための指導者へと変身していく。
スタイルとサブスタンス
予知能力、進まなかった未来、知らなかった過去、仕込まれた預言、そこに示される救世主への期待と責任。愛する人と、政略上の適切な結婚相手。犠牲と大義名分。仕組まれていてもなお、指導者となる人間に求められる覚悟とは?
原作に散りばめられた何層ものテーマと思想を単純化せず(少なくとも原作未読者としてはそう思わせてくれる)、同時にスペクタクルを演出する。これは奇跡に近い。
何せ、画作りも一級品だ。演者から見事なパフォーマンスを引き出しているし、撮影、美術、編集、音響効果、そして音楽のどれをとっても抜きん出ている。白黒のシークエンスを入れ込む色使いの大胆さ、皇帝勢力をはじめとした衣装(フローレンス・プューの式典装束に鳥肌)の美しさ、一族統一のシーンのポールの大演説の威厳。長尺を感じさせないペーシング、アクションでは圧巻の戦争シークエンスと、地鳴りのような音圧で押してくるミキシング。下腹に響くようなサンパーの音が良い。
英雄の誕生物語につきものの筋書きも多々ある(サンドワームを乗りこなすシーンは数々の名作で繰り返される定型)が、いずれもエクセキューションの良さがそれらを名場面たらしめる。
数100億の重荷を背負ってすら実現する、スタイルと、サブスタンス(実体)の両立。お金があるからこそ見失いがちな芸術性を担保しながら、商業性を確保する。これは、それを成し遂げる数少ないシリーズ続編。
言うまでもなく、現代のポップカルチャーを代表する映画監督が手がけた、ブロックバスター作品のひとつの完成形と言っていい作品だろう。
(鑑賞日:2024年3月15日 @グランドシネマサンシャイン池袋)