ハリウッド大作映画の出来に、目くじらを立ててもいい理由
前回の『レディ・プレイヤー1』に引き続き、ウェブデザインもリニューアルされた講談社「クーリエ・ジャポン」さんで掲載させていただいている「現場目線のハリウッド」。第10回の今号は『ジュラシック・ワールド/炎の王国』を取り上げています。
アップしていただきましたので、ご紹介です。
「クーリエ」さんは会員制のウェブ・マガジンですので、一定領域を越えると、残りの文面を読むのに登録が必要となっています。
前回までの9話分は寛大な無料スペースを設定してくださっていたため、ご登録いただかなくとも記事を大方読めていたのですが、今回は大半を有料区域に指定していただくことになったようです。
三谷と私とで会員限定の有料マガジンを展開している私たちが言えた口ではないのですが、読んでいただける方が増えてくだされば、会員・非会員だろうが、私たちはどんな公開方法でもいい......! という気分ではいます。
あけっぴろげな対話になっていますので、楽しんでいただけるとは思います。ご賞味いただけるとありがたいです。
ブロックバスター映画の「務め」
『炎の王国』については、「答え合わせ」でも一筆したためました。基本的に論じているポイントは同じなのですが、「クーリエ」では、三谷と一緒になって、より具体的なプロット、演出、映像面での問題点についてやりとりを交わしています。
「公の場でも臆さない映画論議」をテーマにしているとはいえ、まるで目の敵のようにして話す一作となってしまっていますが...。これはこれで、そんな態度をとっても良いだろうと思える理由はあります。
産業ベースで生み出されるハリウッドのブロックバスター映画にも、アートと娯楽性とのあいだの拮抗があります。どんなポップコーン・ムービーにだって、いかに先進的で斬新で、そして感情に訴えかけるユニークな物語を伝えられるか、常に試行錯誤しているクリエイティブ・チームがいるからです。
言い換えれば、「これは大衆向けの映画だから、渾身のアート作品よりも気楽に挑もう」などと思っている関係者など、いないわけですね。特に現場のクリエイター陣はそう。使えるリソースが多いからこそ、いかにして想像力の限界を突き詰めて表現できるか、が焦点になってきます。
だから、そういった大作映画こそ、在野の多くのインディ・クリエイターたちの見本になる必要があります。ポイントは、2点。
スタジオ側のエグゼクティブ陣が、いかにクリエイターへの自由を与えられるか。つまり「ビジネスサイドによるアートへの許容」です。これが一点。
そしてクリエイター陣が、いかにして大衆に寄り添いつつ、芸術性の新しい扉を開けるか。つまり「アートサイドによるビジネスへの歩み寄り」。これがもう一点。
資本が限られ、アート性の追求のみを目的にすることでしか目立てないインディ映画とは異なり、リソースがあるからこその「責任」と「任務」が、大衆映画にはあります。言い換えれば、「お金と時間をかければ、よりたくさんの人に良質な作品を届けることができる」という命題を、ブロックバスター映画はつねに証明し続ける必要があるのです。
でなければ、「ビジネスとしてのエンターテイメント」つまり「ハリウッド」という産業は成立しません。
こうしたとき、大作映画こそが「表現力」「演出力」「リソースの適切な配分」「伝えるべき倫理的・社会的メッセージ」など、映画という表現物が持ちうるすべての要素で、厳しい物差しにかけられて然るべきだ、と言える理屈がわかるでしょう。
たくさんのリソースを使える立場の人々こそ、一般消費者および業界関係者の矢面に立たされなければならない。そうあってこそ「ハリウッド」は「ハリウッド」たりえます。
では『炎の王国』の何が長けていて、何が欠けていたのでしょうか?
それこそ、映像表現のなんたるかを理解している人々も、ストレートに指摘するべきだ、ということです。言ってみれば政治や経済と同じ、上層への「チェック・アンド・バランス」の論理が存在しているわけですね。
だから、『炎の王国』に目くじらを立てるなら、立てるだけ立てればいい。
そんな「チェック機構」に賛同するもののひとりとして、今回のクーリエや「答え合わせ」は存在していると考えていただきたい、ということです。
お暇な折にでも、どうぞご一読ください。
また引き続き、よろしくお願いします。
合わせて、「mofi」のアカウントで運営している継続課金マガジン「mofi | ハリウッドを読み解く週刊マガジン」も、ご紹介しておきます。初月無料ですよ。