博士課程の総括note
簡単に、自分の3年間を振り返ってみたいと思う。ステータスとしては、東大の学部→東大建築の修士→東大の博士、という感じで、ずっと内部進学である。専門はVR・MRと建築・都市などで、修士から博士までのあいだの主な業績は以下の通り。
1. 博士課程に進んだ経緯
修士の時に、スマートグラスが普及した未来の都市構想の作品や自動運転が普及した時代の都市構想の作品などを製作していた。
そういうことを続けたいんですよね、とPanasonicの執行役員に相談した際に「事業会社としては、社長といえども株主に対して説明責任があるから、先行きの見えづらいものにお金をだしづらい」と言われた。同時に「しかしアカデミアはいいかもしれない」とも。
例えば東大でこういうことを研究としていて、論文などの実績もあり、うちの会社と親和性があるのでこのくらいお金を入れてみます、ということであればぐっと説明しやすくなる、とのことだった。なるほどアカデミアはそうした言い訳づくりにも使えるのだな、と思い、そういうことを検証しようとして、博士に進むことにした。
(詳細は以下のnoteにまとめてあります。)
2. 博士課程に進んでみた結果
まだ詳細は言えないものもあるが、自分の希望したような共同研究もできたりして、おおむね上記の仮説は正しかったと思う。自分の指導教官がそうしたことを受容してくれる先生だったということも大きい。
この4月からは気が付くと東大で研究者になっていた(特任助教)。博士の最後くらいからアカデミアのシステムの難しさも気付くようになってきた。
現状のシステムでは、いくら自分が時間かけて申請書など頑張っても、科研費や共同研究費で買った備品は大学にお召し上げになる。つまり研究費で研究環境を構築すると、それらの首根っこを大学に掴まれるわけだが、助教など確実に数年でその環境を失うことが明確な場合、状況はかなり厳しい。
数十万円単位なら個人で研究資材を買っておいた方がアカデミアの職に執着しなくても済む。お金と環境面で大学から離れておくことはとても大事だと思うようになった。もちろん専門によって全く違うが、アカデミアを離れても研究を(細くとも)続けられる状況を構築することが継続性の点ではすごく大事に思える。
教員になって東大の中で面白かったこととしては、先生方の交流はわりとフランクということである。何かシステムの効果的な利用のためのブレスト会に先生方が数十人フラッと集まって自由に議論していたりする。そういう空気感があることは驚きだった。学内でいろいろな先生を回っていると、本当になんというか迫力が二分しているというか、凄まじい先生とあまりそう思えない人に分かれる(すみません)。
凄まじい先生方は若手の雇用の問題や内部留保の問題や経営的な問題を全体として最適化できるように努めている。とはいえ自分としては、若手の身分であることもふまえると、今は、アカデミアから離れたところで研究が自由にできる仕組みづくりに努める必要はあるなと痛感している。
3. 研究室選びの理由
博士の研究室は、修士2年のはじめに選ぶことになる。修士のあいだは東大の千葉研というところでVRやMRを建築設計でどう使えるか?ということを「The研究」としてはしていて、博士ではより施工や生産なども含めて考えられたらいいなと思って、それまで所属していた設計系の研究室を離れて生産系の研究室に行くことにした。
しかし修士の終り、修士論文を書き上げた直後に大きくピボットし、どちらかというとVR空間を哲学的に考えるような研究へと振り切ったので、当初の想定からは大きくずれた。博士の指導教員としても、当初の想定と大きく異なり混乱されたと思うが、最後まで自由にやらせてもらえた。
同期の博士課程は、研究室の雑務や後輩指導にもっと追われ、先生から大量に仕事をふられ、朝から終電近くまで頑張って、日曜日には鬱憤をはらすように暴走している人もいたので、そのような状態と比べても異様に恵まれていたとは思う。
コロナ禍と博士課程3年間が丸かぶりして色々と大変なこともあったが、かなり自由に活動することができた。
4. お金のこと
博士課程でネックになるのがお金である。実家からの進学と一人暮らしで大きく異なるが、概して一人暮らしのほうがもちろん厳しい面はある。
僕の場合で振り返ってみると、修士から博士までの5年間で1600万円ほど給付型奨学金などのお金を受け取っていた。年換算すると300万円と少し。おまけに仕事でもちらほらと数百万円単位では稼いでいて、アディショナルで、コンペなどの賞金などもあった。金銭的には異常に恵まれた博士課程であったと思う。
極論、朝から晩まで寝ていても月に40万円くらいはベーシックインカムが入るような状況のときもあった。
あまり知られていないが、給付奨学金などは、きちんと出せばかなりもらえることが多い。なんというか、やり方のようなものがあるのだけど、あまりみんなわかってない感じがする。実際、それまでそういうのに出したことのない学部生の子の書類を添削してみたら、修士などを押しのけて学部生で給付型奨学金に通った(から、基本的なノウハウはあまり間違っていないと思う)。
僕の場合では、学部生の頃から出し続けて、いろんな人にフィードバックをもらって肌感を高めていった。おおよその自分なりのノウハウは以下のnoteにまとめたので気になる人はみてもらいたい。もちろんもっと色々と細かいところはあるのだが。
これは自分なりの考え方だが、給付型の奨学金や給料などを何らかの形でもらえるかどうか?を博士課程進学のひとつの目安にしてもいいのかな、とは思う。博士をとってもその後も研究職に進もうとすればいろんな勝負が続くわけだが、ある程度人に「お金を出していいよ」と思ってもらえるのがプロの基準とすると、お金を受け取れるかは進学していいか(プロ見習の修行に行っていいか)の目安になるとは思う。学振などでなくとも、先生がRAを出してくれるとか、そういう事でいいと思う。
ちなみに、学振は僕が博士1年の時はまだ副業制限が厳しかったので、学振を受領せずに自分で働く選択を取ってみたのだが、2年からは副業制限もゆるくなったので受領すると、生活はだいぶ楽になった。絶対給料が、福利厚生などなしで20万円と言われるとタフな感じがするが、ベーシックインカムで20万円もらえると本当に最高だなという感じがする。
コロナ禍と同時に博士課程が始まった1年目、混乱の中で仕事をしながら博士課程に通っていた時は以下のような生活だった。これらが同時並行で進んでいた。
今振り返っても、コロナ禍の混乱の中でこれはかなりキツイものがある。
これも個人的な感想だが、お金や人的リソースが十分にあれば研究ができるというのはかなり妄言で、限られたお金と限られたリソースでいかに最大出力をだすか?というマネジメント力こそが研究力という感じがするので、博士課程では本当はそういうことを身に付ける必要があるのだろうなとは思う。
東大の場合でいうと、大学は巨大な会社というよりは小さなベンチャーの集合体という感じがある。研究業績も、会社名でなく個人名ででることもふまえると、ある程度個人事業主としてやっていく気持ちは必要なのかなとは思う(そう考えると、学生身分を使って給付で奨学金を得られるというのはかなり利用可能性がある)。
5. 研究室を選ぶときの基準?
小さなベンチャーの集合体であるゆえに、修士や博士の生活は大学というより研究室ごとに大きく依存するので、慎重に見極めることが大事と思う。自分が大学院生活の上で最も大きかったのは、修士課程の時の研究室の研究員の方が、とても論文を書ける人で、その人に丁寧に指導してもらったことがその後とても大きかったと感じる。
建築だと黄表紙(日本建築学会計画系論文集)をしっかり書いてる人が指導してくれる位置(先輩とか助教とか研究員とか)にいるのが好ましい気がする。
建築で修士の人とかは修士論文でカオスになる人も多いと思う。
論文はやっぱりアカデミアの作法とかルールのようなものがすごくあるので、なんだかんだ普通に仕事をしてきただけでは書けない部分も多い(気がする)。いわんや研究指導など、サーベイの仕方から図版の作り方から論文のクオリティの見極め、文章の校正まで丁寧にやってもらえないと学べないところもあって、結局最後は論文を書くスキルがないとしんどくなるので(博士は案外放任主義が多いので、特に)、論文指導をきちんと受けられる、ファーストオーサーでそれができる場所、というのは大事かもしれない。
論文執筆のスキルを学べたかが、振り返ってみると、生活を進める上で一番大きかったような気がする。
6. 生活のこと
研究室で次第に自分の研究だけに集中させてもらえるようになって、仕事もほとんど辞め、お金をもらって生活していた。一見楽だが、ミクロでみると辛いこともたくさんある。そういうことはマガジンにつらつらと綴って来たので、ここではあまり触れない。
7. スキルのこと
博士課程のあいだで一番辛かったことは、まるで自分のスキルが全く伸びていないかのように感じるところだった。
修士のときにはTakramというデザインファームでインターンさせてもらっていて、研究も研究員の方に手厚く指導を受けていて、できることが増えていく感覚があった。それが博士の間には、自由になったものの、ほとんどなくなったような感じがした。コロナ禍のせいもあったと思う。16平米ほどの小さな部屋に3年間閉じこもってひたすら研究をする、という感じで、スキルは伸びてない気がする。
自分のせいもある気がするが、修士のあいだに蓄えたスキルをすり減らして生きていくような感じがして苦しかった。これが一番つらかったし焦りだったかもしれない。
8. 博士論文と研究のこと
博士論文は3年で書き上げることができた。3年の間に業績を重ねていくこともできた。
しかし何というか、コロナ禍のハードな中で、本当にご縁に恵まれ、死にそうになるたびに救われた、という感じがする。FC今治の矢野社長やTakramの渡邉康太郎さん、突然のお願いにも関わらずご指導いただき副査も務めてくださった稲見先生、建築家の青木淳さん、同期の友人らはじめ、多くの方々に助けられてなんとか研究を進められた感じで、自分の力のようなものは本当に薄かった。
超長いレポートや文章をすぐに読んで、細かくコメントやアドバイスをくれる人に囲まれていた。これは本当に恵まれていたと思う。というかそれが何とか3年で課程を終えられたすべてだったかもしれない。博士生活をつづるマガジンを見てくれる人がいて、あったときに声をかけてくれたりしたというのもすごく大きかった。
9. まとめ
統計のあやもあるだろうが、「日本の博士課程は米軍に入って戦場に行くより危険」と言われたりする。文科省の統計で進学後に「死亡・失踪」になる率が、学部生だと100人に対して0.6人くらいとかなり低いのだが、博士になると100人に6人〜13人くらいになっている。
米軍になって戦場に行った際の死亡率が、一番ひどい戦争は除くと、2番目にひどい戦争で100人あたり2.5人くらいで、まあ統計の歪みがあるとしても、明らかに鬱などに陥って苦しんでいる人が少ないことは想像に難くない数字なのである。体感としてはあまりズレがない。かなり大変だったし、修士課程と比べると、10倍くらいハードだった。
振り返ると、博士課程は二度とやりたくない。一度は経験してよかったし、何より自分の力というより周囲の人に救われて修了したのであれなのだが、二度とやりたくない。コロナも二度とこないでほしい。
でも博士を取れて良かったと思う。
(投げ銭していいよって方はぜひお願いします)
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