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研究日記2025年1月の報告書。

未来について

ある時死にたい気持ちがして、それをChatGPTに話してみたら、それは疲労や身体の状態があなたに見せる幻だ、と言われた。死にたいという感情は自分の意思ではなく、外在的な要因によってみせられる幻覚のようなものだというのである。道元の「衆法合成」を思い出した。主観はさまざまな世界の要素がたまたまそこで集結して“発生”するものであって、自分のものではない。仏教の世界観だ。

とはいえ、大きな蜘蛛が幻覚と言われれば、見えているものは物理的に存在しないわけで、何が本物で何が幻覚か一応の区別をすることはできる。しかし感情や主観を“幻覚”と言われると、何を信じていいのかわからなくなる。僕たちは果たして本当に自分で考えているのか。死にたいと思う感情が幻覚であるなら、生きたいと願う気持ちも集団幻想なのかもしれない。未来という集団幻覚を、皆がそれぞれの形で見ているのかもしれなかった。未来はいつから確からしいものとなったのだろう。乱世や古来の時代には未来はもっともっと、不確かで弱々しいものであったに違いないと思う。

未来のキッチンや未来の移動。未来の設計事務所。なんでもいいけれど“未来の”何かを考えることが、どこか不確かすぎて弱々しいテーゼになってきている気がするのは僕だけなのだろうか。実験室で培養された弱い生き物みたいにすら見える。そのささやかな妄想は、暴力的な技術の実装によって簡単に粉砕されていく。それこそ生成AIが出てくるだけで、いろんな未来図が書き変わってしまうように、可哀想なくらいに圧倒的に打ち砕かれてしまう。そんな“未来”をどこか物悲しく思う。

バーチャルを潜在性、アクチュアルを顕在性と言ったのはドゥルーズらだったかと思う。そもそもはアリストテレスの頃からの議論だが、例えば種子はバーチャルに木である、という言い方をする。つまり木になる可能性を持っている時、それは潜在的に木であり、その潜在性がバーチャリティなのである。そのように捉えれば、僕らの世界は常にバーチャルとアクチュアルの揺れ動きとして理解できる。バーチャルなものはやがてアクチュアルになり、時にアクチュアルなものは姿を消してバーチャルに戻る。

その意味で未来は常にバーチャルだ。あるいは、バーチャルこそが未来、という言い方もできるのかもしれない。何か世界に潜んでいる可能性のようなもの全体をバーチャリティと呼ぶのなら、それがどの過去に由来するものであれ、常に“未来”として過去から保存される。つまり過去から今に至るまで生き永らえている未来、というのが存在することになるわけで、過去―今―未来という図式が全然成立しない。この辺りで、“未来の”何かを考えることがバカらしく思えてくる。昔からある未来、というのはちょっと笑える表現だ。

未来の何かを考える無意味さを説く教えは仏教にもあったようで、道元であれば「而今」といった。今そのもののこと。しかしそのような考えに興味深い疑問を挟んだのは、哲学者の大森荘蔵さん。“今”と“さっき”の境界線はどこにあるのか?と問うのである。確かに“今”と“さっき”は異なる。でも何分何秒前か?と言われれば答えられない。非常にぼやっとした範囲として“今”がある。でもそれは本当の瞬間そのものではない。振幅のない音は聞き取れないように、“今”も幅を持っている。“今”とは過去と未来を含む幅のこと。だとしたらそこに“今”はない。過去と未来しか原理的に存在していない。

日本の文化はただ“今”の集積だったのではないかと思う。そしてそれは短期的な“今”であることもあれば、伊勢神宮のように“20年”という幅を、“今”として取り扱い、ただそのような“今”を積み重ねていくことによって“今”を育てることもあった。未来に向かう、のではなく、「“今”を育てる」。そんな表現が近頃の時代にも合うのではないか、と思う。

レコードの音楽を聴き、丁寧にコーヒーを淹れ、フィルムカメラを触る若い人が増えているという。こういう感覚の中に僕は、“未来”というものよりも、「“今”を育てる」という感覚を覚える。未来という集団幻想は、かつてよりも力を失いつつあるのではないか。月給は20万円とかなのに、ジュースの値段は110円とかだったのが1年で150円とかになっている。Nvidia株みたいな物価高騰をしている。より良い未来なんていう集団幻想を、多くの人が見られなくなってしまった。あるいは見たくないものになった。その中で、「“今”を育てる」感覚がむしろ若者を中心として広がってきた。地に足がついた感覚だし、そのような感性は、すごく深いところで中世的な文化と共振するだろうと思う。そのような土壌の上で弱々しい“未来”が滑っている。

あるいは革命でも起こり、年金システムが精算され、いろんなものが破壊されたら、また“未来”はリアリティを持つのだろう。つまり“今”にある可能性たちが、生き生きと踊り始めるような時代が来れば、ということだけれど。

世界の軽さのこと

家に数千冊の本があった。見えている部分だけでも部屋を埋め尽くしていて、見えていないベッドの下や棚のあらゆるところを埋め尽くしていた。本に満たされた世界は自分の世界であり、同時に自分がやってきたことの蓄積でもある。したがって非常に心地いい。でも同時に、心地良すぎてそこから動けない自分も強く自覚するようになった。山椒魚を思い出した。自分を新しい方法論や環境の中に持っていきたいのに、自分の心地いい世界に引っ張られて足が重くなる。そんな葛藤の中で、「自分を軽くするためには、まず世界を軽くしなくてはいけないのではないか」と思うようになった。

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旧「2023年3月に博士論文を書き上げるまで」。博士論文を書き上げるまでの日々を綴っていました。今は延長戦中です。月に1回フランクな研究報…

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