赤ひげ
酒屋になった今でこそ、一人で飲み屋さんで酒を飲むようになった。
酒屋になるまでの前職時代は、酒はもちろん好きで自宅で飲んではいたのだが、そもそも酒を飲みに外に出るという事は一切なく、生活は仕事中心で、寝るために家に帰るという生活であった。
誤解のないように言っておくと、勤めていた会社はブラック企業だったわけではなく、ただただ仕事をするのが楽しかったので、ひたすらに仕事に没頭していたからだ。
地元の古賀市に帰って来てからは、酒屋として日々飲食店さんに酒を配達する生活に変わったのだが、その中でひときわ個人的に興味を引かれる店があった。
「赤ひげ」という店だ。
「赤ひげ」は元バンドマンの70代の大将がやっている店だった。店主は皆んなから「ひげさん」の愛称で呼ばれていた。愛想はいい方ではないが、愛のある優しい人だった。
ひげさんは、60年代のジャズやR&Bを愛し、自身もサックスの演奏者でもあった。
ラークのブラックメンソールを1日1箱〜2箱ほど吸い、ウイスキーを愛飲していたが身体を壊してからは酒を断ち毎日コーラを飲んでいた。高身長で白髪のロン毛、立派に蓄えられた髭、履き込んだブルージーンズに下駄、頭にはカウボーイハットというスタイルで店に立つカッコいい人だった。(ちなみにひげは赤くはない)
僕は赤ひげに酒を配達しては、ひげさんから昨日の客がどうだ、どこどこの店の連中がどうだ、支払い滞ってすまんだ、そんな中エアコン壊れて出費があってどうだ、こうだ、あーだ、と話しをしてくれた。僕の周囲の人たちは一癖も二癖もあるひげさんの事を苦手としている人もいたが僕はひげさんと話しをするのが嫌いではなく、むしろ好きだった。
赤ひげは、お通しがメイン料理位の量がある店だった。大抵の場合、からあげがお通し皿に誇らしげに陣取っていた。お通しだけでなく焼き鳥もデカく、まさしく腹一杯にしてもらえる店で、言わずもがな料理の味はどれも最高だった。
からあげにいたっては、福岡で名の知れた某大手飲食店の社員がレシピを教えてほしいと上司と共に直談判にまで来たというから驚きだ。ただ真相は定かではない。
深夜帯は大抵一人で店をまわしているにも関わらず、近くのスナックに出前もしていた。スナックで赤ひげの出前を食べた客があまりのうまさに赤ひげの常連客になった。
米焼酎をベースに提供されるコーヒー焼酎も絶品だった。豆はエメマンを使っているらしく、夏は3日、冬は4日漬け込み、コーヒーが落ちたら完成だそうで、コーヒーの油が浮いてくるので漉しながらつくるのがポイントだと教えてくれた。
僕はオリジナリティーに満ちたこの一国一城の空間がとても居心地がよくて、地元に帰ってから、生まれて初めて一人で飲みに行き、生まれて初めて行きつけの店というものになった。
雨の日も、風の日も、雪の日も、台風の日も、お盆も、年末年始も、赤ひげは一日も休まなかった。元旦に家族で食事にも行った。娘たちも赤ひげのからあげが大好きだった。
そんな一国一城の主人であるひげさんは世の中にたくさんの不満を抱えている人だった。
僕の世の中に対して常に斜に構えて見てしまう姿勢はひげさんに影響されたものなのかもしれない。
こんなにいい店が、綱渡り経営だったのは、社会環境のせいもあるのではないだろうかとまで思っている。
社会環境のせいにしていたら、そもそも経営なんてできないわけでもあるが、いいものを作っている、提供しているのになくなってしまうお店があるというのは僕にとっては素直に悲しい事である。
そしてその日は突如としてやって来た。
ひげさんは一人静かに店で息を引きとったのだ。急性の病が原因だった。
あまりに突然の事で僕は唖然としてしまった。まさしく言葉にならないという感情だったように思う。
常連客たちが花を手向に赤ひげに通う中、僕は一国一城の主人を失った赤ひげに行くことが出来なかった。その時はじめて、僕の祖父の葬儀に出なかった坂口さんの気持ちが少しわかった気がした。
(※坂口さん:前の記事参照)
自分がいいと思うモノやコトがなくなってしまわないように、その価値に共感してもらえる人が増えていくような環境をつくっていけるように、自分にできる事をやっていく。
もう赤ひげにはいないひげさんにそっと誓った日から数年後、、
気づけば僕は仲間と共に町おこし会社を立ち上げるまでに至っていた。
偶然は必然だったのか。必然の連鎖はやがて小さな奇跡へとつながってゆく。