はじめまして。 福岡県の片田舎の古賀市という町で、ノミヤマ酒販という酒屋を営んいる許山浩平(ノミヤマ コウヘイ)と申します。昭和62年生まれのゆとり第一世代で現在36歳です。 大学を卒業後、大手レストランチェーンに就職(※同社には大学時代のアルバイトから含めると11年間勤務しました)。その後、父親の病気がきっかけで、2017年に家業の酒屋を継ぐ為に故郷の古賀市にUターンで戻って来ました。 会社自体はいわゆる老舗でして、創業明治21年です。僕は6代目となります。 2018
娘 : 「パパ、こくごのしゅくだい終わったけんまるつけて🫶🏻」 僕 : 「あいよ🫰🏻」 まる、、、、 まる、、、、 まる、、、、 まる、、、、 まる、、、、 まる、、、、 まる、、、、 まる、、、、 僕 : 「・・・・・。」 さんかく、、、、 (現場からは以上です)
右手薬指骨折の手術をした当日の事。 夜には麻酔も切れてしまい、痛み止めの薬を飲んでいるにも関わらず指に心臓でもできたんじゃないかという位にドクドクと痛んでいた。 担当医の先生からは、あまりにも痛い時にだけ使ってもいいですよとの事で、飲み薬よりもさらに強力な坐薬の痛み止めも処方をしてもらっていた。 ただそれを使ってしまっては、何となく痛みに屈してしまった感、骨折という敵に負けてしまった感(どうゆう事?)もあるので、使わないでおこうと個人的に密かに思っていた。 しかしながら
1ヶ月ほど前に右手薬指を強く挟んでしまい、思いっきり腫れていたのだが病院には行かず放置していた。(早く行った方がいいです) 1ヶ月経っても痛みが引かないので、ようやく病院に。検査の結果骨折が発覚し、さらには手術をする羽目に。 手術は局所麻酔の日帰り手術ではあるが、ドリルで骨に穴を開け、金具を3本入れて固定するというマーベラスなものだった。(意識がある中での処置なのでまあ怖い) 手術日当日、手術が無事終わった後、疲れ果てて沈んだ気持ちで待合室で待っていた時の事である。
酒屋になった今でこそ、一人で飲み屋さんで酒を飲むようになった。 酒屋になるまでの前職時代は、酒はもちろん好きで自宅で飲んではいたのだが、そもそも酒を飲みに外に出るという事は一切なく、生活は仕事中心で、寝るために家に帰るという生活であった。 誤解のないように言っておくと、勤めていた会社はブラック企業だったわけではなく、ただただ仕事をするのが楽しかったので、ひたすらに仕事に没頭していたからだ。 地元の古賀市に帰って来てからは、酒屋として日々飲食店さんに酒を配達する生活に変わ
いやはや、現代社会というものは情報が溢れに溢れ、どの情報が自分にとって正しいのかを選別する技術が必要だと感じている今日この頃。 Instagramの検索ページには、「あなた様にオススメします」とも言わんばかりの、さまざまな情報が僕の目に否応なしに飛び込んでくる。 そんな便利なようで便利でない時代に僕はと言うと、ちょうど子育てに四苦八苦しているいわゆる子育て世代である。 幼稚園生の娘は何に対しても興味が湧く年ごろで、事あるごとに「何で!?」「どうして!?」の興味と好奇心の
何を持って商店街活性化なのだろう。ひいては地域活性化なのだろう。 ある人は、「その町に住んでいる人が幸せと感じているか」と言う。 ある人は、「ゴミ拾いしている人の数」と言う。 ある人は、「人口増加」や「税収増加」と言う。 そもそも地域活性化という言葉に明確な定義はなく、一般的には、それぞれの地域が今後も持続可能な社会を創り上げるための取り組みや活動などを総称して使われている、、、、。 「でも、そんなの関係ねェーーッ!!」 「でも、そんなの関係ねェーーッ!!」 「
若い頃から、とにかく好きなモノに全財産を注ぎ込んできた。 別に自慢できる事ではないが、30代になるまでろくに貯金できた事はない。とにかくモノを買いまくってきた自負というより事実がある。 酒屋になった30代からは「食」や「体験」にお金を注ぎ込む事が増えたのだが、それまではとにかく好きな「モノ」を買いまくっていた。ジャンルはホントにさまざまで、本、服、文具、釣具、時計、家具、自転車、車(ちなみに初めて買った車にいまだに乗っている)、などなどである。 僕の場合、30歳になるま
僕は訪問営業をやらない。 具体的には、飲食店へ突撃してまで酒の売り込みをやらないという事だ。 7年前、心ある造り手からお酒をお取り扱いさせていただけるようになってから、とにかくがむしゃらに営業していた時期がある。 惚れ込んだ酒の蔵元とのお取引きが叶ったとて、結局のところ、エンドユーザーの方々にしっかり売っていかなければ、酒屋にも蔵元にもお金が入っていかない。健全なパートナー関係を続けていくには「売る」事は大切なのだ。 一方で、もちろんただ売ればよいというわけではなく、造
小学校に入学した長女が、途端に使う言葉がきたなくなってしまい、言葉の大切さを諭そうと娘に物申した時の話である。 僕 : 「そんなきたない言葉を使っとったらきたない顔になるよー!人というのは使う言葉通りの顔になるんよ。綺麗な言葉を使う人は綺麗な顔に、きたない言葉を使う人はきたない顔になるとよ。」 娘 : 「パパ、、、、顔きたないやん🫶🏻」 僕 : 「・・・・・。」 現場からは以上です。
一人の恩人がいる。その人の名は坂口さん。 ノミヤマ酒販近くの工場に勤めていて、僕が生まれる前からノミヤマ酒販の角打ちに通って下さっていたお客さんである。 坂口さんは、ノミヤマ酒販の角打ちに来ると、甲類焼酎(無味無臭のただのアルコール)をお湯割りにして、缶詰をつまみに酒を引っかけて帰ってゆく。週6日間の営業日のうち、ほぼ毎日来てくれる生粋の常連さんであった。 7年前、僕が店を継いでリブランディングに着手していた頃、まずその一手として店舗のリノベーションを思案していた。
己は何がしたいのか、何をやっているのかという話。 きっかけをつくりたい(※創る) 共感の輪を広げていきたい(※伝える) 行動する人を増やしたい(※正しく広がる) ホントに偉そうな事は言えないが、自分の物差しでモノやコトを見るという事を続けていくと、自然と価値基準が定まってくるように思う。 さらには、心が振れ動くような体験を積み重ねてゆく事によって、その物差しが研ぎ澄まされていくイメージを僕の場合持っている。 (※ちなみに対人関係のコミュニケーションに関しては自分の
小学から大学までの16年間で覚えている先生といったら、片手でおさまるほどである。(他の先生たちにもお世話になっているはずなのでちょっと申し訳なさもあるが) 中でも特にお世話になった、というか記憶に残っている先生が二人いる。 一人目は、小学4年の時の担任の先生。二人目は、中学2、3年の時の担任の先生だ。 小学4年の時の担任の先生は、とにかく一緒に遊んでくれた先生である。 昼休みには毎日必ず我々男子生徒に混じって運動場でみんなと一緒にサッカーをしてくれた。先生は大抵の場合