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アートを守るのは一体誰の役割なのか

少なくとも建築自体はカリフォルニアの土地のようなので日本の価値観で全てを抑えることはできないだろう。
私は記事の内容はともかくとして、アメリカのセレブが安藤忠雄の建築に興味を持つことが面白いと思っている。記事の中にあるが安藤忠雄の建築が現代アートの巨匠の延長上として名前を挙げられており、アートのコレクションに勤しんでいるとのこと。

難解であるはずのアートを、人を喜ばせることを生業とするポップスターの行くところまで行き着いた人が作品に多額の出資をすることはある種の安心を覚える。
情報化社会では理解されないものは「わからないもの」としてとことん排除される方向にあるが、少なくとも理解されるべき人に守られている感じがする。


自分自身はコンテンポラリーダンスとは何かを深く知りたくて、その好奇心からヨーロッパに来ているのでアートやコンテンポラリーダンスを「よくわからないもの」と一蹴している姿をインターネットや実生活でしばし目にはいることは心が痛くなる。

抽象表現を「生産性がない」と切り捨てたくもなるだろうが、人間表現は如何なる表現であれ支持されるべきだしサポートし合うのが協調性、というものだと思っている。

とはいえ、スペインでもロンドンでもコンテンポラリーダンサーやディレクターはしばしば助成金ベースでプロジェクトを組んでいるし、資金繰りに書類申請に翻弄される。そのような文化だとは理解しているし、そのような文化から作品の必要以上の文脈化(Contextualise)に迫られ、学術的すぎて"踊る"こと自体の喜びから認知科学や脳科学の知識を引っ張ってきて"考える"ことの喜びに偏りすぎることは踊ることの喜びの本質から多少はずれているように感じる。

現代アートも説明されなければわからない。自分もわからなかった。
大学の選択授業でアートの歴史の講義を偶然にも受け、そしてその後に何十時間もかけてリサーチしてようやく自分なりのアートの楽しみ方を見つけられるようになった。今や人間表現のアートは歴史や流れを理解しないと評価もしにくいし制作ですら難しい環境だ。
パブロ・ピカソはキュビズムの役割をどう考えていたのだろうか、現代のアーティストのように過剰な文脈化に追われた上で自身の作品を位置付けて制作しただろうか?きっともっと純粋な好奇心からだっただろう。

人間表現であるアートを守るのは一体誰の役割なのであろうか。


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