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③離島暮らしとアドレスホッパーを経験した夫婦がモンテッソーリ教師を志すまで(離島暮らし編)

こんにちは!こはるぽんです!
(はじめましての方はぜひダイジェストからご覧ください!)

前回は、旅に出るきっかけとなった結婚当初のすれ違いについてお届けしました。

そして今回はいよいよ旅の始まり、離島暮らし編をお送りします🏝️

2021年:離島の「ないものはない」暮らし
28歳。島根県・隠岐諸島の海士町という、人口2,200人の離島に移住。
はるぽん:現地で地域おこし協力隊的な「マルチワーカー」として就職。
こはる:東京時代の仕事を超遠隔リモートワークで続ける。




「夫婦二人だけで、3年かけて、暮らしの幅を広げてみよう」


2020年秋。
すれ違いを経て、とりあえずはこんな目標を立てた私たち。
東京を離れるのか、離れるとしてどこへ行くのか、そして何をするのか……。
話し合うことは、まだまだ山積みでした。

そんな折、はるぽんはコロナ禍に起きた買い占めにショックを受けていました。

安全で、なんでもあるように見える東京から、次々と食べ物が消えていく──。
考えてみれば東京は世界有数の過密都市で、その食のほとんどを農村や海外に依存している。
何か一つ機能不全に陥ると一気にドミノ倒しに秩序が失われるくらい、本当は脆い環境なのかも知れない……。

いつか子どもは授かりたい。けど、全部お金で解決する暮らししか知らないまま、子どもを迎えてしまって本当に大丈夫なのか──。

自給率の低い日本を支える海運会社に勤めたことで、より実感を伴って、食や環境に危機感を抱き始めていたはるぽん。

「この際ガラッと環境を変えて、ちょっとでもいいから、自分たちの手で食べ物を賄うことを試しておいた方がいい気もするんよね。もちろん、いきなり山に籠って暮らすとかの自給自足じゃないかもしれないけど……」

そんな話をこはるにしながら、ひとり見始めた地方移住情報サイト。
そこで見つけたのが、島根県の沖合に浮かぶ、ある離島なのでした──。


それは、海士町(あまちょう)という、人口2,000人余りの島。
ユネスコのジオパークにも名を連ねる圧巻の自然景観と、後鳥羽上皇に代表される知識人たちが築き上げた歴史文化、そして新たな移住者を呼び込む数々の施策で、近年注目を浴びる地域の一つでした。

そんな海士町の取り組みの中で、はるぽんの目に留まったのは「島の食材だけで和食を学ぶ料理学校」でした。
地球の裏側から来る食糧に依存しない「手に負える食」を、ここでなら学べるかも知れない──。

はるぽんは興奮冷めやらぬまま、二人での現地見学を提案します。


💁‍♂️「お金はかかるけど、結構大事なことを学べそうだな、と思ってて……。こはるはリモートで今の仕事を続けられるか、現地で仕事を探すのかまだわからないけど、まず一回行ってみない?」

💁‍♀️「……しま?……で料理学校に通うの?その後は料理人になるってこと……?」

💁‍♂️「うん、将来は地産地消とかに関心のある人が来てくれるようなレストラン開いたりとか……?料理人にならなかったとしても、今後いろんなことに繋がってくると思うんよね」

💁‍♀️「はるぽんは料理上手だとは思うけど、“料理”と“料理人”じゃ学ぶことも全然違うと思うし、月10万×12ヶ月って学費も安くはないし、その方向にいきなり舵を切るのはすごく不安……」

💁‍♂️「うん……でもこのまま東京で暮らすのもそれはそれで不安だし、1年間学生をやるくらいの貯金はあるし、正直今のままじゃ先が見えないから何か変えたいって思う」

💁‍♀️「うーん……。はるぽんが料理人になってるっていう未来が正直あんまり想像できなくて、しかも離島ってなるとなおさら実感湧かないなぁ……」

💁‍♂️「うん……。まぁ確かに俺も料理人になりたいからって感じではないけど、このコンセプトがすごく良いな、て思って……。とりあえず現地見てみないと正直なんとも言えないから、俺は一人でも見学行ってこようと思う」

💁‍♀️「うん、そっかぁ……じゃあ、いってらっしゃい……」


こうして結局、はるぽんは一人で島に赴くことに。
東京から800km余り、陸海空を跨いで、ついにその地に足を踏み入れます──。


「苦しい時、夫婦で一緒にいられるかなんだ」

初めての島の印象は──“広い”。
大きさ自体は30k㎡程度と小ぶりなものの、人は少なく、視界は開け、少し高台に登るだけで、果てしない海と空が臨める──。

その後幾度となく眺めることになる藍の空

東京では味わった事のない開放感に浸りながら、島内を巡り学校の見学を終えたはるぽん。
しかしやはり、本当にここで二人で暮らせるのか、不安も募ってきます。

そんな中迎えた滞在最終日、島に10年以上住むある先輩移住者夫婦から、一つの金言を賜ります。

「もし何かするつもりなら、絶対夫婦一緒がいいと思う。楽しい時はいいけど、特に辛い時、苦しい時こそ、それを夫婦で一緒に経験できているかどうかは、とても大きいと思う──」

はるぽんはこの言葉に大きく突き動かされます。

(どんな選択をするにせよ、二人の人生。なんにしても二人で一緒に島を見てみないことには始まらない……!)

帰京後、はるぽんは再度こはるの説得を試みます。
そして翌月には、2度目の見学に向け、二人は並んで波に揺られていたのでした。


──ひと月ぶりの再上陸となったはるぽん。
何人か知り合いもでき、既に島は「見知らぬ土地」ではなくなっていました。

一方のこはる。
半信半疑で島に降り立ったものの、自分でも意外な心境の変化がありました。

(あたりまえだけど、無人島じゃない以上は人も住んでるし、商店や学校だってあるんだなあ……。Iターン移住の人も多いから、地縁のない私たちも馴染めそう。
何より、はるぽんと同じように都会暮らしに疑問を持って移住してる人もいる。都会の会社員生活で心身疲れ果てちゃったはるぽんも、ここなら仲間を見つけて元気になってくれるかも

──この時こはるは、二人の人生を左右する選択を、自分ごととして捉えていたわけではなく、はるぽんがやりたいならやろう、という動機で考えていました。
(ここは大事なとこなので「こはるのモノローグ」として後述します💁‍♀️)

いずれにせよ、東京に戻る頃には、以前には想像できなかったほど現実的な計画として、離島移住を話し合えるようになっていました。


💁‍♀️「島には住めそうだったし、同年代の人も思ったよりいたから、なんだかやっていけそうだね」

💁‍♂️「うん。住めば何かしらの形で自給自足も体験できそうだったし、こはるの言うように、料理学校にまで通う必要はないかもしれないなって思った」

💁‍♀️「そうだね。仕事に関しては、私は今の仕事をリモートで続けられるようにしたいけど、はるぽんは、現地で仕事見つけられたらより良いね」

💁‍♂️「うん、そうね。もうちょっと調べてみよう」

💁‍♀️💁‍♂️「それでは、ゆっくりしていってね」(みたいになっちゃった🤣)


そして、海士町に繋がるあらゆる情報をかき集める中で、島でスタートしたばかりのあるプロジェクトが、第1期生を募集していることを知ります──。


マルチワーカーという新しい働き方

人口減少と高齢化の進む海士町では、働き手不足が大きな課題となっていました。
その一方、一年を通して人を必要としている職場は少なく、長期で安定した雇用を提供することも難しい状況でした。
その解決策として新たに始まったのが、マルチワーカーという“働き手マッチングプロジェクト”

働き手であるマルチワーカーは、派遣元となる運営事務局と無期雇用契約を結んだ上で、“自身の希望”と“各職場の繁忙期”のマッチングに応じ、島内のあらゆる職場に派遣されていく。
こうして、島の各職場は必要な時に働き手を補充でき、マルチワーカーは一年を通して仕事を維持できる、というwin-winの仕組みです。

これなら、暮らしを立てつつ自給自足を体験できるし、ここで子どもを迎えたいかについても、島の色んな側面を見ながらじっくり話し合うことができる──。

はるぽんが採用されたら、島に移住することにしよう」

こうしてようやく、二人の足並みは揃ったのでした。


都会の対極で得た、豊かな暮らし

面接の後、はるぽんは無事採用され、晴れて海士町への移住が決まりました。
ここで改めて整理すると、海士町を選んだ目的は大きく2つ。

①東京の対極で、食との繋がりを見直す
私たちは、二人とも都会生まれ都会育ち。
今後またどんな災害や社会の変化が来るかわからない中で、一つの生き方しか知らないのは、リスクになるかもしれない。
ちょっと郊外に行くとかよりも、あえて極端に思える選択をした方が、自分たちにとってちょうどいい「あいだ」がわかるのではないか?
海士町のキャッチコピーは「ないものはない」
東京にあるものがなく、ないものがある場所として、ある程度の不便さも受け入れた上で、生きるのに欠かせない「食」を少しずつ見直してみたい。

②「子どもの目線」で環境を見てみる
子どもは親の在り方を吸収する存在。
子どもを迎えるのは早くて3年後にしようと決めたけど、まずは親となる自分たち自身が、住んでいる環境を好きでいられているかが、大切なんじゃないか。
また海士町の少子高齢化は激しく、50年後の日本の姿だと言われている。
少し未来を先取りした海士町で暮らすことで、自分たちの子どもが将来どんな環境で生きるのかが見えてくるかも。
海士町は数々の新しい取り組みでも有名だけど、それが未来にどんなふうに繋がっていくのか、子どもに戻ったつもりで考えてみたい。


2021年3月。ついにスタートした島暮らし。
何もかもが新しい日々は、一つひとつの出来事が新鮮で、東京で暮らしていた頃には無かった感慨に溢れていました。
また、支え合い、刺激を与え合える友人もたくさんでき、そのおかげで大変なことも乗り越えることができました。

仕事としては、はるぽんはマルチワーカーとして、春は水産工場、夏はホテルと、繁忙期の職場を渡り歩いて過ごしました。そして秋冬は、海運会社での人事経験を活かし、事務局で新しいマルチワーカーの採用業務をサポートして過ごしました。

こはるは東京の企業のEC事業部に勤めていましたが、離島からの超遠隔リモートワークで仕事を続けられることに。(当時の会社の上司や同僚が本当に柔軟で、こんな前例のないリモートワークを快く認めてくれました。本当に感謝です……)

コンビニもない日本海の小さな島で、私たちは古くて広い日本家屋に住み、
少しずつ野菜を育て、波止場で釣った魚をいただき、庭で焚き火を楽しみ……
「自らの手で食べものや暮らしを得ること」を少しずつ学んでいきました。

あたらしい日常

中でも心に残る挑戦として、ホテルで働いていた際に出た朝食の廃棄を持ち帰り、コンポストを作ったことがありました。
それを肥料に育てた野菜を食べた時「手元からでも小さな循環の輪を作ることができるんだ」と、ささやかだけど確かな感動を覚えました。

右がコンポストで育てた方。
ほんのり緑が多いかな?

島で暮らしていく上で何よりも心強かったのは、ご近所に住む地元の方々の存在
初めての環境に戸惑う私たちに気を配り、惜しみなく手を貸してくださいました。
日中家にいることの多かったこはるは、PCや電話で東京の同僚とやりとりしつつ、家の窓越しにお隣さんから突然スルメイカを10杯お裾分けしてもらう……という場面も🤣

本当にいろんなものをお裾分けいただきました☺️

また、Amazonが翌日には届くという都会顔負けの便利さに驚いたり、一方では、悪天候でフェリーが止まれば商店から物が無くなっていくという、島ならではのリスクも目の当たりにしました。

これらは全て、書物やネットで拾う間接的な情報ではなく、実際に島に住んでみるという直接的な経験を通して初めて、身をもって学ぶことができたことでした。

なにもかも、はじめてやってみることばかりでした


それでも、私たちが島を離れた理由

自然に囲まれた、長閑な島での日々。
しかし、子どもに戻った目線で見てみると、難しい面も色々と見えてきました。
(これは決して、島の子どもたちはみんなこう感じているだろう、ということではありません。“もし自分たちが”子どもに戻ったらどう感じるか、という視点です)

例えば、車道が張り巡らされた島の環境は、思いっきり走り回るにはやや危険を感じ、広く安全な遊び場は、むしろ東京の方が多かったように感じました。
また、島史上最大の予算をかけて作ったホテルが、オープン直後から潮風で傷み始める姿を見てしまい、数十年後島に何が遺されているのか(考えすぎかもしれませんが)暗い気持ちになってしまったことも事実です。

精神的な面でも「一旗あげないといけない」「何者かにならなくてはならない」というような切迫感を、一定の人から感じてしまいました。
大げさかもしれませんが、「名を上げる場を探し求める人」と「課題に溢れ人を求める島」とが、共依存しているような雰囲気を、感じ取ってしまったのです。

その雰囲気に呑まれる形で、私たちも「移住したからには、島のために何かを成し遂げるまでは、何があっても逃げてはいけないのかな」と思い詰めることがありました。
もしこの雰囲気を子どもとして受け取ってしまったら、「島に貢献する人間にならなきゃ」と自分の意思そっちのけで背負ってしまいそうに思えたのです。


はるぽんの働き方にも、新しい課題が見えてきました。

本来繁忙期は、“閑散期があってこそ”乗り越えられるもの。
マルチワーカーの仕組みに忠実に働くと、一生繁忙期になってしまう……。
雄大な自然の中に暮らしているのに、気づけば家と職場の往復で1日が終わっているという、都会と変わらない日常になってしまっていたのです。

しかしこれは、事務局や職場の方々の柔軟な対応もあり、一定期間“はたらかない”という新たな休養制度「リトリート」を設けるきっかけに。
きっと改善を重ねていけば、もっと良い働き方になっていくな、と希望を感じた瞬間でした。

それでも、島で暮らし続けていくことが難しいと感じていたのには「社会観」が大きく関係していました──。


少し脱線しますが、ここスウェーデンは、individual(個人)を重視する社会のため、個々へのリスペクトが大切にされる反面、連帯感に欠けると言われます。
他方、離島のようなcollective(集団)な社会では、共同体の一体感を大切にする一方、個々へのリスペクトは二の次になってしまっていたように感じました。

これは、どちらが正しいかという話ではなく、傾向として違いがあるという話です。そしてこの傾向の違いは、人を見る目にも違いを生んでいたように思います。

例えば「30代前後の夫婦」と言えば、スウェーデンではその人たちを語る属性の一つ、という印象を受けますが、島では「男らしく働くもの/子どもを産むもの」という一律の属性として扱われてしまうことが多かったように思いました。

これは特定の構成員に対してではなく、大きな方向性に対して思うことで、もちろんどの社会にもどちらの要素もあると思います。

過疎化の進む地域でどう生きていくのかは、本当に難しい問題だと思います。
個々人が何を目的にその地域で生きているのかへの理解と、全体としてどの方向に進んでいくのかという意思統一と……なかなか一筋縄ではいかない問題です。

海士町のいろんな取り組みも、あらゆる人が知恵を結集し、試行錯誤して出来上がったものばかりだと思います。
それでもやはり、社会観の違いは、暮らし続ける上では無視できないものでした。

ある時はるぽんは、自身の尊厳が損なわれたと感じる出来事がいくつも重なった結果、当時の本人の未熟さもあって、人間関係のトラブルを経験したことがありました。

至らなさを反省すると共に、どう生きていきたいのかを再度二人で話し合った結果、自分たちは「人間一人ひとりを尊重する価値観」がベースにある社会で暮らしたいんだ、という心の叫びが、聞こえてきたのです──。


私たちにとってこの移住は、“1年に及ぶ合宿”だったのかもしれない

「移住」のスタンスって、ほんとに人それぞれだな、と思います。

夫婦で移住したこともあってか、私たちの場合「ここに永住するの?」とか「定住して子どもも産むんでしょ?」というように言われたことも何度かありました。

でも定住とか永住って結果論みたいなもので、“気づいたら何十年住んでた”みたいなことなのかなぁ、と思ったりもします。
もちろん私たちも、水が合えばずっと住むことになるかな、というつもりで移住しましたし、地域清掃やお祝いの行事の準備などにも積極的に参加していました。

でも、二人で決めていたのは、先のことを決めずにまず住んでみるということ。

改めて振り返ると、私たちにとっての離島移住は「二人の人生に向き合うための長い長い合宿」のような意味合いを持っていたのかな、と思っています。


「東京の対極で、食を捉え直す」
「子どもの目線で、そこに生まれたいか考える」

改めて自分たちの目的に立ち返った時、それらはすでに達成されていたということに、ふと気づきました。

苦しいこともたくさんあったけど、まさにその時を夫婦で一緒にいられたことで、一段と強い信頼関係を築くことができました。

島には大好きな人たちもいて、忘れられない経験もたくさんあって、海士町は自分たちをひと回りもふた回りも成長させてくれた大切な場所です。

それら全てを心に抱いた上で、私たちは「季節がひと巡りしたら島を出る」ことを決めたのでした──。


さて……島を出るとは言ったけど、次はどこへ行こう?
島暮らしで一層増えたこの大量の荷物と共に、またどこかに移住するのか……?

そんな時、はるぽんが見つけたのが、「アドレスホッパー」というこれまた想像したこともない生き方なのでした──。

④につづく……

2度目の桜が咲いた時、
私たちは島を出ました。



こはるのモノローグ:「子どもに関わる仕事」に一歩踏み出した1年

さて、離島暮らし編、いかがでしたでしょうか?
ここまで読んでいただいてお気づきかと思いますが、
東京を出ることも、離島に移住することも、
そのほとんどははるぽんのアイデアでした。

その時こはるはどんなことを感じていたのか。
ここから先は「こはるのモノローグ」と題し、
こはるの言葉で綴ってみようと思います。


──まず今は、東京を出て離島で暮らしたことが、私にとっても二人にとってもすっごく良かったと思っています。

生まれ育った東京を出て、家族や友人たちとも離れ、ある意味逃げ場がなくなったことで、身も心もはるぽんと二人ぼっちになりました。
それが結果的に自分自身を見つめ直すことにつながり、そうしていくうちに少しずつ、二人の人生を自分ごととして考えられるようになっていったと思います。

そしてそれも、はるぽんが東京を出ようと提案した理由の一つだったことは、後になって知りました──。

離島移住の表のテーマは、食と環境を見直すことでしたが
はるぽんの中にあった裏のテーマは、それぞれが生まれ育った環境の影響を受けない所まで、二人で逃げるということだったのです。

しかし当時はそんな事は露知らず。離島移住を提案された時は、そこで暮らしている自分の姿が想像できず、実際島に着いてからも、どこか他人事のような気持ちで過ごしていました。

「ほぉ〜ここが海士町かぁ〜」

私には今まで、自分が人生を通してしたいことは何なのかを、じっくり考えられる機会があまりありませんでした。
(というより本当はわかっていたのに、共感性が高すぎるあまり周囲の期待に自分を合わせようとして、無意識に本当の自分から目を背けていたと思います。詳しくは②の記事で綴っています)

そもそも自分自身からも目を背けていた私には、二人の結婚を自分ごととして考えることなど到底できませんでした(あたりまえですね)。

そんな私が島暮らしの中で経験したとても大きな出来事が、
「独学で保育士の資格を取得したこと」でした──。

時は遡り……2008年夏。
15歳のこはるは、夏休みのボランティアで1日保育士さんに挑戦しました。
あんまりに忙しくて、それ以上にものすごく楽しくて、「子どもに関わる仕事」への気持ちがムクムク湧いた1日でした😊

ただ2011年の大学受験期にも、2015年の就活時期にも、そんな気持ちはすっかり頭の隅に追いやり……
特に就活時期には、「今まで投資してもらった教育を無駄にしない、“かっこいい"仕事に就かなきゃ」と力んだ結果、とんでもなく大迷走しました。
数多の“適性診断”を受けましたが、質問にも結果にもピンとくるものはなく
「この中のどこにも私はいない……」と感じていました。

なんとか新卒で就職したIT企業でも、転職先の企業でも、周囲の人々に恵まれました。でも逆に言うと良かったのは人間関係だけで、仕事自体へのモチベーションは全く湧きませんでした。
同い年の友人たちが意欲的に目標設定して、成果を出していくのをただ「すごいなぁ、同じようにできない私は欠陥があるのかな」と眺めていました。

2020年の新婚当初、ストレングスファインダーという、自分の強み(資質)がわかる性格診断を夫婦で受ける機会がありました。
結果、私の強みは「共感性、ポジティブ、個別化、成長促進、包含」。

すごい偏り!

この右上の「人間関係力」というグループに偏った結果が本当に衝撃的でした。(専門のコーチの先生にも、はじめて見たと言われたくらいです🤣)
というのも、共感性や包含なんて、そんな資質は一般的な就活の適性診断ではまず重視されず、問診項目や結果に出てこないものだったから。

そして何より、私という人を雄弁に説明してくれていたから。
27年間で形作られた私の人格を、「ここにいたんだね」と、初めて見つけて抱きしめられた瞬間でした──。

💁‍♀️「あのねはるぽん、そういえば実は私、保育士さんに興味があったんだよね。こんな資質があるなら、保育士さん、できそうな気がしてきた…!」
💁‍♂️「何それ、すごくいいじゃん!やってみなよ!こはるのことを待ってる子どもたち、きっとたくさんいるよ

そっか、私のことを待ってくれてる子たちがいるんだ。
その子たちの目のきらめきと、手のやわらかさが鮮明に想像できました。
15歳の時の保育士体験で感じた、あのときめきが蘇ってきました。

はるぽんのおかげで、まずは保育士試験にチャレンジする勇気が出ました。
そして離島に移住した2021年、家族や友人と離れた私ははじめて自分のための勉強に集中することができました。
そしてついに年末には、独学での保育士資格取得が叶ったのでした。

それまで周囲の期待に合わせてなんとなく人生を歩んできた私が、初めて自分自身のときめきに向き合い、耳を傾け、手を差し伸べることができた出来事でした。

それでもこの時点では、保育士の待遇が良くない事、そして自分の適性をまだ信じきれなかった事から、転職するまでは踏み切れなかったのです。
2023年始めの、とある出会いまでは……(つづく!)

縁もゆかりもない島根の地で、
ひとり保育士試験に向かうこはる

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こはるぽん@スウェーデン
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