言葉にならないもの -雨の火曜日-
かけがえのないもの
個人にとってかけがえのないものが、他の人にも同じように、かけがえのないものであるかどうかわかりません。むしろ同じではない方が当たり前でしょう。だから、誰かと共有できた時には、より一層かけがえのなさが強まるのかもしれません。だとすると、物事のかけがえのなさを「共有できる誰か」の存在こそが、かけがえがないものとも言えるのではないのでしょうか。「旅は道連れ、世は情け」を辞書で調べると、以下のように説明されています。
これは小説の主人公が、「旅は道連れ、世は情け」の意味を問われた時の言葉です。「旅は道連れ、世は情け」ということわざを、出会った者同士が助け合うことの教訓として私は覚えていました。けれども「偶然の巡りあいというのは、人の気持ちのためにけっこう大事なものだ」と聞いて、確かにそうだといたく納得したのでした。
たまたま出会ったほとんどのモノゴトは、知らないうちに流れては消えていきます。ごくわずかですが、時としてふと心に留まる感覚があります。それが留まる理由や気持ちが、その時にはわからないとしても、その感覚を大事に取っておきたくなったり、何度も振り返りたくなったりすることがあります。この感覚はかけがえのないものに触れている感覚なのだと思います。
雨の火曜日
*七海さんは架空の人物で、この物語はフィクションです。
例えば雨の火曜日。それは一人の女性、七海さんにとってかけがえのないものの一つになっています。その日七海さんに偶然起きた感覚やその前後で起きたできごとが、その後の七海さんを変えることになったからです。かけがえのない体験なので詳細はここに書きません。というよりも、人に伝わるようにわかりやすく書くことができません。かけがえのないものは、うまく言葉にならないのです。
言葉にならないかわりに、感覚の記憶は幾重にもなって七海さんの中で残っています。
薄灰色の街、
雨が傘にあたる音、
濡れた地面を踏みしめる足の裏の固さ、
雨が靴下にしみてきている足先の冷たさ、
右足の指は濡れて全滅だけれど左足の指はまだ大丈夫な軽さ、
アスファルトや土や草木から立ち昇るにおい、
聞こえているけれど意味がはっきりわからない声、
前髪が濡れて顔に張り付き視野が狭い中で見える影、
自らに問いかけ生まれるたどたどしい気づき、
強まったり弱まったりして降り注ぐ雨粒の動き、
花や枝を包む雨露の輝き、
自らの中で少し確かになる気持ち、
薄灰色の街を見つめる瞳に戻った小さな光
雨が降ると七海さんはその日の感覚を繰り返し思い出します。そして、その体験を振り返り考えることで、自分の中に起きた変化、特に薄灰色の世界とそこにある小さな光をメタファーとして、七海さんは自分自身の理解が深まっていくことに喜びを感じ、そして誰かに話してわかってもらいたくなるのでした。
言葉にならないもの
個人の大切な体験や気持ちを理解する営みの一つに心理療法があります。心理療法、特に精神分析の中の「解釈する」ことについて書かれている文章をご紹介します。解釈すると聞くと、言葉にすることを連想しがちですが、言葉にならないものについても丁寧に感知し、解釈することの大事さと手順が記されていました。
続いて大事なのは「自分の感覚のところで意識化すること」と述べられていますが、その時はまだ言葉にならないとも書かれています。その作業の先に、意識化したものを「自分のなかで、何とかしてきちんと適切なことばにする」ことが大事なのだそうです。別の箇所でも「言葉でないものに浸透していかなければいけない」と記されていました。
簡単に言葉にはならない感覚や気持ちが生まれたとして、それをわかろうとして一つ言葉にすると、言葉にならないままの気持ちや体験が、なかったもののようにフェイドアウトしてしまうことにはもの寂しさを感じます。言葉をあてがわれた途端に違うものになってしまうこともあります。
河合隼雄は箱庭療法を説明する中で、言葉と言葉にならないものについて書いていました。
その人の自然治癒力やイメージの力を信じて活かして、その人から表現されるものを大切にして心の変容を支えていく過程では、言葉と言葉にならないものの両方を含み込んでいくのが自然であるのだろうと感じました。
言葉にならないものが言葉になっていくこと
言葉にならないものを言葉にならないままで受け止めることと、
自分の言葉になるまで考えながら待つことと、
自分の言葉になったものは丁寧に誰かと共有することと、
自分をそのままに理解し受け止めるためにどれも大事であることを、
七海さんの体験をあえて言葉にしたりしなかったりする表現の仕方で書いてみました。
火曜日は雨の予報です。
かけがえのない体験や言葉にならない気持ちについて、雨粒のように降り注いでくるままに書いた文章です。