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結婚ラッシュを体感し、縄文時代の結婚を考えた話

「え、みんな結婚しすぎじゃない?」
四捨五入したら30歳。
最近、周囲から「結婚」というワードを耳にするようになった。

「こはる、結婚するから式きてほしい~」
もちろん、友人が結婚をすることは自分のことのように嬉しい。
結婚式や披露宴で漂う祝福の雰囲気に誰よりも酔いしれている自信もある。
「結婚」は素晴らしいことだと思う。

でも、「20代後半=そろそろ結婚」という世の中の法則にどうも違和感を覚えて仕方がない。
特に心がザワつくのは、正月に行われる親族の集まり。
「いい感じの人いるの」と嬉しそうに尋ねられる。
親族に会えるのは嬉しいが、土足でわたしの部屋に上がってきて「結婚」というワードを壁に落書きされたような気持ちにもなる。
ここ数年、結婚反抗期なわたしは質問に対して「結婚はゴールじゃなくて、手段だし」といちいち可愛くない返事をしていた。すると、今年になって尋ねられることもなくなった。(なんかそれはそれで寂しい)

わたしだっていつか「結婚」したいな、とも思う。
ただ年齢を理由に、結婚を目的に、結婚だけが幸せみたいな
まるで「世の中と結婚する」ことだけは避けたい。
大事なパートナーと共に、わたしたちのタイミングで「結婚」を選択するのが理想だ。

「ってかさ、縄文ってそもそも自由恋愛じゃなかったんじゃない。ってことは、自由恋愛な現代ってありがたくない?」
いつものようにわたしがペラペラと「世の中に対して思うこと」を話していると「わたしが縄文好き」と知っている友人がナイス問いかけをしてくれた。

「縄文時代、自由恋愛は基本的になかった」
・縄文時代の家族の形に関しては、実はよく分かっていません
・ネットワーク形成のために婚姻が用いられるのであれば、子が生まれた時点でどこに嫁がせる、どこにいくのかあらかじめ決まっている可能性が高いのです。そう考えると、自由恋愛は基本的になかったと考えるのが自然

縄文時代の「結婚、家族」を探る…現代との大きな違いとは

もし祭祀で「わ、あの人いい感じ」と思っても
どんぐりを収穫しているときに偶然手と手が触れ合っても
密かに幼馴染に恋心を抱いてたとしても
2人は結ばれることはないということだ。

たしかに縄文時代は子どもが生命線。
ムラの存続を考えると労働力となる子どもは貴重な存在。
わたしのように結婚反抗期がいるとムラの未来は危ういかもしれない。

男性には申し訳ないが、集落としては子種さえあれば良かったのではないか。その観点から見ると、縄文時代に作られた男性器を模した「石棒」という遺物も納得がいく。女性や妊婦を表現した土偶に対して、男性は男性器だけを表現した石棒で、全体を表現されることがない。なんとも露骨な話である。

日本人が知らない「縄文人」の意外な恋愛事情

もしかすると恋愛がいまのような「ときめきポップな現象」ではなかった可能性もある。本能的に心がときめいた相手がいても、気持ちを押し殺さないといけないなんて苦行でしかない。そして、ムラのために決められた相手と結婚的なものをして「これがわたしの生きる道」と思い込ませる。
(※わたしの妄想がかなり入ってます)

うぅ…辛すぎる。
韓国ドラマさながらの辛い展開だ。

そんなことを考えると現代は世の中の見えない圧があるが、自分で選択できる。歴史の積み重ねによって、このように「選択できる自由」を手に入れられていると思うと人間の先輩方に感謝しかない。
捉え方によって現代はどこまで生きやすくなれる。
縄文時代よ、いつも教えてくれてありがとう!


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