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読書記録|手づくりのアジール(青木真兵 著)⑩

藤原 私も、いろいろな人が出会える偶然性の場所をつくり続けていきたいと思っています。その一つの方法が読書会です。本があると居場所ができます。ルチャ・リブロがやっているように、本を媒介に人が集まり、意見を交換し、討論する。本が持つそうした磁力を大切にしたいと思うのです。そして私は歴史研究者として、過去に生きたさまざまな死者の言葉を今の人に出会わせたい。

青木真兵 (2021). 「手づくりのアジール」p.132


読書会にはどんな人が来るのだろうか?

本章を読み、そんなことをぼんやりと考える中で、三浦隆宏さんの著書「活動の奇跡:アーレント政治理論と哲学カフェ」を読んだ。ハンナ・アーレントの著書と、哲学カフェという活動を結びつけて考察する本だった。最終章では、哲学カフェという対話の場を作ってきた三浦さんが、そうした場所に関わる人には〈観客〉と〈傍観者〉がいることを指摘している。

 〈観客〉とは、たとえば哲学カフェなどの場において、とりたてて自分の意見を述べることもなく、そこでの対話そのものを愉しんでいる人たちのことである。[…]
 傍観者や見物人は、むしろ対話の場の外でその営みを(訝しげに?)眺めている存在であると言えるのかもしれない。[…] たとえば、コーヒーなどの飲み物の注文を取り、それらをテーブルに運んでくる店員や、たまたま同じ時間帯に同じカフェに居合わせ、遠巻きに対話の場に目をやっている人を想像すればいい。
 重要なのは、〈観客〉が対話の場を注視しているという点で、活動の他者ではありつつも場の内部にいる存在なのに対して、傍観者や見物人は、文字どおり対話の場のにいるという点である。 […] つまり〈傍観者〉は観客のように熱心に対話の場を注視しているのではないぶん、それを距離を置いて、または時間を隔てて、眺めていることになるわけである。
 ※本文傍点部を太字で表記

三浦隆宏 (2020). 「活動の奇跡:アーレント政治理論と哲学カフェ」 p.312/ p.315-316

三浦さんはさらに、〈観客〉や〈傍観者〉が、読書会という場を続けていくうえで重要な役割、すなわち、制作者の役割を果たしうることを指摘している。

「傍観者の見たものが大きな意味を持つ」[…] 傍観者や見物人は、ある出来事に対して利害関係を持たずに接し続けることで、事後的にその出来事がどういうものであったのかを、その出来事に巻き込まれているアクターや関心をもって注視している観客とは別の角度から、捉えることが可能になるわけだ。[…] 傍観者や見物人が、自分が距離をおいて眺めていた出来事について、いざ口を開き、記述しだしたとき、彼/彼女らはどのような存在となりうるのだろうか。こうして私たちは、当時の活動や出来事の軌跡を物語り、記憶する役割を果たしうる、歴史家や詩人、あるいは物語作家といった存在に行き着くことになる。
 ※本文傍点部を太字で表記

三浦隆宏 (2020). 「活動の奇跡:アーレント政治理論と哲学カフェ」 p.316-317

詩人や歴史家は、もとは観客や傍観者、ないしは見物人というあり方をとっていた人々だという風に見ることができるのではないだろうか。活動はこのような〈他者〉たちに支えられつつ、彼/彼女らによって、その営みが連綿と語り継がれてきた(ゆく)のである。

三浦隆宏 (2020). 「活動の奇跡:アーレント政治理論と哲学カフェ」 p.322

〈観客〉や〈傍観者〉であった人が、詩人や歴史家になり、制作物を残す。制作物は時をこえて残り、未来の人々に死者の言葉を届ける。そうを読み解くことができる。


ふと、こんなイメージが頭に浮かんだ。

本が集まる図書館がある。
時に読書会をする。
そこには〈観客〉や〈傍観者〉もいる。
次第に彼らが会話や記述を始める。
その記述が本になり、図書館に置かれる。
置かれた本を、誰かが読む。
読んだ人は、本を別の場所にもっていく。
別の場所で会話が始まる。
そこには〈観客〉や〈傍観者〉がいる。

そんなことがあったら良いなと、本章を読みながら考えた。


「ルチャ・リブロを読み直す」第5回読書会
課題図書:青木真兵(2021)『手づくりのアジールー「土着の知」が生まれるところ』晶文社
第5回:「「スマート」と闘う 藤原辰史×青木真兵」(P111-132)
2024年8月19日(月)20:00~22:00
会場:homeport(北20条)or オンライン
どなたでも参加可能です。参加希望の方は下記までご連絡ください。
kohan.seisakushitsu[a]gmail.com
 ※[a]を@に変更してください

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