終わらない景色〜車窓から
各駅停車する普通電車が好きだ。故郷までは高速道路で1時間余り、大抵自分の車を運転して帰省するのだけれど、時々車窓の景色が見たくなって電車で帰る。
そもそも田舎なので、一つ一つの駅はこぢんまりと佇み、私が学生の頃に見た景色とあまり変わらない。一番のお気に入りは海に面した駅で、車窓からは白く泡立つ波しぶきが見える。天気の良い日は空の青と海の碧が交わる水平線がキラキラと反射して眩しい。黙って携帯を見つめ電車に揺られていた乗客達もこの場所になると皆、顔を上げて車窓に顔を近づける。
小さな駅に停まるたびに数人の人々が乗り降りする。楽しそうにお喋りしている女子高校生達や野球帽を被った無口そうな男性や、電車を指差しながらはしゃぐ小さな孫の手を引いたお爺さん。母娘とみられる年配の女性が母親を気遣うように座席に座らせる。
そんな穏やかな時間が流れる昼の電車もいいけれど、夜はまた違った風景が現れる。空が瞑色に変わるころ、ひとつ、またひとつと増えていく家々やアパートの灯り。
そんな灯りを眺めているとふいに学生の頃の感傷的な思いが胸に蘇る。夏休みで長期帰省していた実家から大学へ戻る電車に乗った日。駅まで見送りに来た両親は電車が見えなくなるまで手を振ってくれた。見慣れた街の景色が車窓を通り過ぎていく。あの日も今日のような茜色の空だった。少しずつ故郷や父母から遠ざかっていくのを感じながら窓の外をずっと眺めていた。
やがて夕闇が迫り、窓の外には無数の灯りが現れてくる。温かなオレンジ色の一つ一つに誰かの生活をともらせて。それぞれの家族や恋人、大切な人のために夕食の準備をしている家も多いのだろう。こんなにたくさんの明かりがある中に、私を待ってくれている燈(ともしび)はどこにもないのだ。10代の私は無性に寂しかった。
そんな遠い記憶に連れ戻されたのは車窓の景色があの頃とあまり変わっていないからかもしれない。開発されていく街の中心部は ここから離れた場所にあって、明るく便利になり、様々な新しいお店で賑わっている。でも懐かしい記憶から塗り替えられた街は私の目には よそよそしく映る。
以前ダ・ヴィンチに掲載された江國香織さんのエッセイの中で、彼女の母がすっかり様変わりしてしまった街を見て、「ママは昔のこの街をその印象のままにしておきたいから、もうこの辺には来ない」と言ったと書いてあった。そしてこう締めくくられていた。
〜その人のことはその人だけのものだから"わからない“。そしてちゃんと"わからない”と、受け入れられると、それは優しい想像に繋がっていく気がする。と。
なるほど...と思う。江國さんの母の気持ちはわかるような気がするのだ。実際生きていくなかではそんなわけにいかないのだけれど。(ちなみにこのエピソードにヒントを得て、あの衝撃的な老人達の死を描く『ひとりでカラカサさしてゆく』の作品が生まれた)
だから時々、記憶の中の景色に会いに行く。各駅を停まり、その素朴な建物の佇まいがまだ終わっていないことをたしかめに。
孤独な雲に語りかけたり
弱気なネコ 追いかけたり
何気ないこと頭の中で やけに詳しく浮かべた
明日が来るよ 同じような明日が来て
僕はもう決めた
スピッツ 『会いにいくよ』