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喜怒哀楽のアウトソーシングと推しのアウトソーシング
こういった事例を見ることが多くなりました。
「怒り」「感動」と言ったことを自分の言葉で行うのはとても苦労します。怒っているという文章を書くこと自体、実際真正面から取り組もうとすると労力がかかるものです。イライラした対象について考え続けないとなりませんし、なぜ自分がこの対象に起こっているのか整理する必要があり、そして何よりアウトプットしたことに対しては責任が伴います。
私はこんなに怒っているのに、一生懸命文章を書いたのにSNSで「なにそんな小さなことにむきになってるの?」と言われてしまうと、自分が何か矮小なモノのように思えてしまう、そんな事もあるかと思います。
そんな時に便利な言葉、「○○だったらきっと怒るだろうな」です。
○○には特に故人が入りがちです。例えばドラゴンボールの新作について文句=怒りという感情があった場合「鳥山先生だったらこの作品見たらきっと怒るだろうな」と、表現します。
また、appleの新製品についても「ジョブズがこの新作のiPadを見たらきっと怒るだろうな」という文脈、見たことがありませんか?
自分が怒った、気に入らない、という感情すら、自分の言葉で語ることをしません。もし、自分の言葉で「嫌い」と言ってしまったら、それに対しての反対意見が来るかもしれないからです。
ただ、故人の意見にしてしまえばそれもありませんし、もし反対意見が来たとしてもそもそも空想の話なので議論にもなりません。
映画等で感動した場合も同じような事が見られます。
自分で感想を書かず、ネット上で検索をかけ、自分と似ている意見を「俺もこう思った」と言うわけです。
これはつまらない、と言った場合でも同じですし、感動した場合でもよく見られます。感動のアウトソーシングですね。
そして、そのコメントに対して「そんなにこの映画面白かった?」と批判が来ても、「俺が書いたんじゃない、アウトソース先のこの記事が悪い」と責任転嫁できます。
そして、もしかしたら最近の『推し』という文化を「成功や幸せや活躍のアウトソース」と考えると、しっくりくることも増えてきたようにも思います。
私たちが「推す」とき、ただのファン活動ではなく、自分自身の願望や理想をその人に託しているのではないでしょうか。「自分のお金や時間を差し出すから、私の代わりに成功してほしい」「私の代わりに幸せになってほしい」と、どこか心の片隅で願っているのかもしれません。
現代社会では、成功や幸せを自分で手に入れるのが難しく感じられる瞬間がたくさんあります。忙しさやストレスに追われていると、夢や目標が遠くに感じられることも多いでしょう。
そんなときに「推し」という存在が、私たちの代わりに前に進んでくれる。推しの成長や成功を見ることで、自分が成し遂げられなかったことをまるで自分のことのように喜べる、そんなアウトソーシングの形なのかもしれないなと思いました。
そのため、「推し」が何かネガティブなことを行うと必要以上に批判するのかもしれません。アウトソーシング先、自分の人生の疑似体験として仕事を依頼しているのに、不始末をしたらなぜか裏切られたという感情を持つ気持ちもわからなくもないです。
ただ、いくら感情のアウトソーシングや成功、幸せ、活躍のアウトソーシングをしても、仕事と違い、あなたの手元には何も残らないので、何か自分で実際に活動しても良いのかなとも思います。