アリとキリギリスと努力しない人間と努力した人間
「アリとキリギリス」を知っているでしょうか。
昔話「アリとキリギリス」は、勤勉なアリが冬の食糧を蓄え、気ままに遊ぶキリギリスが冬の寒さに困るという教訓を伝える物語です。
有名な物語ですよね。努力も蓄えもしないと後で痛い目を見る、私の価値観では違和感のないストーリーとなっています。
しかし、現実の人間社会ではどうでしょうか?物語のように単純な結果にはならないことが多いと思っています。
現代では、勤勉に蓄えたアリよりも、努力を怠り、後から「権利」を振りかざして主張するキリギリスが、少なからず存在しています。
例えば、こう言う人がいます。
「高齢者の貯蓄中央値、わずか650万円なんですよ…その状況で社会保障を絞ったらどうなるか、自明ですよね。」
確かに、社会保障が無くなれば生活が厳しくなるのは明白です。しかし、その裏にあるのは、人生を通じて備えず、蓄えもせず、気ままに生きてきた人々の姿です。
確かに平等ではないでしょう。生まれ持った才能と言うものもあるでしょう。
ただ、学校で勉強もせずに、テスト期間も遊び惚け、仕事も適当にこなし、文句ばかり言っている人の年収が低く、酒やギャンブルなど嗜好品にお金を使い貯蓄をしてなかった人の貯金額が少ないのはそこまで違和感がある話ではないでしょう。
一方で、努力して蓄えた人々もいます。彼らは将来を見据え、生活を切り詰めて貯蓄し、健康も維持してきました。
しかし、彼らが最後に手にするのは、遊びほうけていた人々のために払わなければならない税金です。
高齢になり、自分の力で頑張った結果として得た財産が、努力を怠った人々の生活を支えるために使われる、それが現代の「アリとキリギリス」の結末なのかなと思っています。
人権という強力な武器は、「正義」と呼ばれるものために使われるべきだと思っています。
しかし、現代社会ではそれが「努力しなかった」言い訳として使われる場面も少なくありません。「私には生きる権利があるから、誰かが助けるべきだ」と。
確かに、生きる権利は誰もが持つものです。しかし、同時に、その権利を主張するためには、ある程度の責任も伴うのではないでしょうか。
蓄えない、備えない、そして最終的には他人の努力に頼る。人間はしばしばこのように振る舞い、誰が支えているのか、どこから資源が来るのかを深く考えません。
現代社会では、勤勉さが必ずしも報われるわけではなく、努力しない人々が最終的に得をするケースも増えています。蓄えたアリが負担を感じ、蓄えなかったキリギリスがのんきに「権利」を語るその姿こそが、人間のくだらなさの一端を示していると思いますし、辟易としています。
「私たちの血税が!」と言っている人はどれだけ税金を納めているのでしょうか。
一説によると、年収700万円や800万円くらい稼がないと、収めている税金よりも、あなたのために国が使っている税金の方が使われていることも多いと聞きます。
「いやそんなことない」と言う人も多いと思いますが、上下水道の整備、道路の整備など、いたるところに税金は使われています。
結局、物語の教訓が現実に通じるとは限らないのかもしれません。
ただ、私の価値観では、努力も何もせずに、ただ危なくなった時に騒いで「人権」を主張し、結果として努力した人々が割を食う現代を、もう少し考えてもいいのかなと思います。