行き過ぎた「自然」信仰
行き過ぎた「自然」信仰
海外の文化にはあまり触れたことが無いのでわからないですが、日本は「自然」信仰が強いと思っています。過去は山岳信仰や農耕儀礼などで見られましたし、現代日本においても、「自然信仰」は変化し続けており、新しい形で表現されています。
「自然」の例
街中を歩いていると次のようなものをよく目にします。
天然素材の製品
「天然」を前面に出した商品が多数市場に出回っています。自然由来の成分を用いることで、安全性や健康への配慮をアピールしています。たとえば、天然由来成分100%のスキンケア製品や、合成保存料を使用していない食品などですね。
ボタニカル製品
「ボタニカル」という言葉は、植物由来の成分を意味し、自然の恵みを生活の中に取り入れることを指します。ボタニカル系の製品は、美容や健康だけでなく、家庭用品や飲料にも及んでいます。たとえば、ボタニカルシャンプーやエッセンシャルオイル、ハーブティーなどがあり、これらは自然派志向の消費者に支持されています。
オーガニック製品
オーガニック製品も自然信仰の一形態と言えます。これらの製品は、化学肥料や農薬を使用せずに栽培された農産物や、それを原材料とする加工食品を指します。オーガニックは、環境への配慮とともに、消費者の健康を守る選択として注目されています。
天然=必ずいいもの?
いずれも街を歩いているとこういった宣伝文句を見ます。ただ、「天然だからと言って必ずしも良いわけではない」という現実を理解することが重要です。
天然成分の安全性
まず、天然成分であっても、必ずしも人体に無害とは限りません。例えば、毒キノコや有毒な植物は天然ですが、明らかに有害です。また、アレルギー反応を引き起こす自然成分も存在します。花粉は天然なものですが、私とはとても相性が悪く(良く?)、結果として4月はティッシュが手放せなくなっています。
環境への影響
天然成分を採取する過程で、環境破壊が伴うこともあります。例えば、ある植物が天然の成分として注目された結果、過剰な採取が行われ生態系が脅かされるケースがあります。持続可能な方法での採取が行われなければ、自然保護の観点から見ても問題があります。
効能の誤解
効能についても、「天然由来」と書いてあるからといって、「良い」わけではありません。
そこに書いてあるのは「天然由来」という事実だけです。
天然の範囲
例えば食品添加物的なモノの代表例として「味の素」がやり玉に挙げられることがあります。
味の素のスタートは「植物原料」です。
そのため味の素は「天然由来」と言えるでしょう。工場を経由すると「天然由来」でなくなるというのでは「天然由来」の化粧品などありえなくなってしまいます。
自然?人口?
私が価値観としてずっと疑問に思っているのが「遺伝子組み換え作物に対しての忌避感」です。
納豆を買いに行くと必ずと言っていいほど「遺伝子組み換えでない」と書いてあります。
その一方でお米やブドウはおいしくいただいています。
品種改良と遺伝子組み換え
多くの人々は、「品種を延々と掛け合わせて作られたお米」などの従来の品種改良作物に対しては比較的抵抗感がないものの、「遺伝子組み換え大豆」に対しては強い忌避感を示します。この差異は何から来るのでしょうか?
品種改良は古くから行われており、そのプロセスは自然界の交配に似ているため、より「自然な」方法と認識されているように思います。一方で、遺伝子組み換え技術は比較的新しく、科学的介入が直接的であるため、「不自然」と捉えられがちです。
ただ、人工授粉して作り替えていく品種改良は果たして自然でしょうか?
科学信仰と自然信仰のバランス
現代社会において科学は非常に重要な役割を果たしていますが、同時に「自然」への憧憬もまた強く、時には科学技術を超越する力として理解されています。このため、科学的な進歩がもたらす変化に対しては慎重な態度を取ることが一部で見られます。
遺伝子組み換え技術もその一例です。この技術がもたらす潜在的な利益(作物の収量増加、病害虫への耐性向上など)にもかかわらず、多くの消費者はこれを「自然」からの逸脱と見なし、その安全性や倫理性に疑問を投げかけます。これは、科学に対する信仰と自然に対する信仰が交差する地点にあると言えるでしょう。
この先どうなるのか
こういったものは理屈ではない価値観で動いていると思います。
鶏肉や豚肉、牛肉も品種改良のたまものです。これはOKで培養肉はNGというのは単に慣れのような気がします。もしかしたら私が生まれる前、育てられた豚肉が初めて登場したときも「こんなの天然じゃない」と避けた人がいるのかもしれません。
もしかしたら10年後には納豆の「遺伝子組み換えでない」という文字は消えてるかもしれませんね。