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民俗学小話③鬼滅アニメに備えて鬼の話をしよう

(メイン画像:アニメ『鬼滅の刃』より)

 鬼滅の刃が人気になって、もう随分経つ。
 もうすぐ刀鍛冶の里編が放映されるということで、鬼という妖怪がいったい何者なのか、つらつら語っていこうと思う。

 この手の話題になると「現代の鬼のイメージは本来の鬼とは違っていて云々」みたいな流れになりがちなのだが、鬼に限っては、一周回って現代のイメージで割と合っている
 数十年前は「やたら原色バリバリの肌」「虎柄パンツ」「金棒」でイメージが固定化されていたが、エンタメ文化の隆盛でいろんな鬼が現れた。

 なんとなく角のイメージは残っているかもしれないが、現代の鬼は、極めて幅広い姿を持つ。
 そして、それこそが鬼の本質なのだ。

 という話を深堀りしていく前に、注意点がある。
 鬼の正体は外国人のことだった、とか聞いたことがある人も多いだろう。
 こんな風に「●●という妖怪の正体は〇〇」という言説は多いのだが、実際のところ、伝承というものは様々なルーツの重ね合わせから形成される。
 広く知られた有名妖怪ほど、単一のルーツだけでは説明できないのだ。
 ということは心に留めておいてほしい。

オニと鬼

 まずはじめに指摘しなければならないのは、鬼という漢字とオニという音は、もともと別個に存在していたという点だ。
 オニとはオン(隠)から転じたものとされ、隠れ潜む怪しげなイメージだ。
 鬼という漢字は、言うまでもなく中国からはいってきたもので、海の向こうでは幽霊に近しいニュアンスを持っていた。

 で、日本に入ってきた鬼の漢字は、古来なんと読まれていたのかというと、『モノ』だ。

 これはモノノケのモノに通じていると言えば、なんとなくニュアンスが掴めるだろう。
 現代では『"物"の怪』と表記するが、まさにモノとは物、すなわちThingでもある。
 英語のSomethingやAnythingのように、漠然と、何らかの存在を指し示す言葉。それがモノだった。

 漠然としているからこそ、それは具体的な名を持たぬ怪しげな奇々怪々を指すことができる。
 といっても、対象となるのはもっぱら、姿かたちをもつ相手だ。不可思議な現象や、霊的存在を指し示すのであれば、カミやタマシイ(タマ)といった言葉が適切だろう。
 それらに比べると、モノはやや物質的なイメージに紐づく。

 人々の暮らす日常。それを取り巻く境界。その一歩向こう側にあるもの全般が、モノだったのだ。
 たとえば、海の向こうから来た異人や、山奥に住む奇妙な集団。たとえ村落の内側であっても、障碍者のように奇異と見なされる個体は、モノとなり得る。

 モノとは、『何か』であり、その曖昧さゆえに恐れをもたらす存在だった。

鬼の多様性

 何だかよくわからないということは、多様な姿を取りうるということだ。
 昨今の漫画やアニメの鬼というのは、角っぽいパーツさえあればだいたいなんでもいいし、なんなら角さえない。

 こうした観念は、室町時代にはガッツリ定着していた。この時代に百鬼夜行絵巻という絵巻が何パターンも作られているのだが、これを見れば、多種多様な姿の鬼が描かれている。
 百河童夜行や百のっぺらぼう夜行はないのだから、これは鬼という存在がどう見られていたのか物語る、わかりやすい事例だろう。

 百鬼夜行絵巻が描かれたのは室町時代だが、更に遡って、平安時代の時点で百鬼夜行の概念はあった。
 『今昔物語集』には「さまざまの怖ろしげなる形なり。これを見て鬼なりけり」なんて書かれている。『宇治拾遺物語』でも、様々な鬼が100体ほど一度に登場する。
 

物と鬼

"モノ"づくり

 モノといえば、昔物部氏という人たちがいた。歴史上の有名集団だ。物部守屋とか教科書にも載ってるかもしれない。
 彼らはモノづくりをつかさどる集団だった。
 物部氏を鬼の一族と見なし、歴史上の扱いを紐解こうとする研究者もいたりするが、その話は余談として置いておこう。

 物部氏はともかくとして、彼らの司った、モノづくりにも鬼は宿る。
 技術を革新していくのは、いつだって、外からやってくる新たな概念とのせめぎあいだ。境界の向こうから持ち込まれる、未知の技術力。それはまさしく鬼の力だった。

付喪神絵巻

 先述の百鬼夜行絵巻、類例がないと言ったが、実はひとつだけある。
 付喪神(つくもがみ)絵巻といって、雑に扱われ捨てられた道具たちが、怪異に変化して集団行動する物語だ。
 これは百鬼夜行と違って町を練り歩くわけではないのだが、ある種の盗賊集団となって人間たちに復讐するストーリーが描かれている。

 付喪神ということで、道具がそのまま生きて行動するようなイメージを抱くかもしれないが、彼らの姿は千差万別で、百鬼夜行の鬼たちにかなり似ている。
 文章で使われている言葉としては「男女老少」「魑魅悪鬼」「狐狼野干」という表現だ。脈絡なく様々な容姿をとっていることがわかる。

 なお、この付喪神絵巻も百鬼夜行絵巻と同様室町時代ごろの成立だが、もっと古い時代の日記に、類似例と思しき作品を見にいった話が記載されている。
 百鬼夜行の原型は、この付喪神たちの復讐譚だったのかもしれない。

 で、百鬼夜行絵巻の鬼の中にも、道具っぽい特徴を残した連中がけっこういる。日用品から肉体が生えた異形頭の鬼たちが一定数見られるのだ。

 現代でもカメラの三脚とか想像するとわかりやすいが、脚が生えた道具というのは多い。絵巻の中の道具鬼に見られる例だと、鼎(かなえ)とか。
 これをひっくり返して頭部と見なせば、脚は自然と角のようになる。
 鬼の角のルーツの一端は、これなんじゃなかろうか、と思う次第だ。

鬼と鍛冶

 鬼というと金棒、つまりは金属のこん棒のイメージが強い。
 鬼の後ろに「ばばぁ」をつけると、鬼婆≒包丁といったイメージも浮かぶ。しかも、包丁を持って追いかけてくるのみならず、夜中にこっそり研いでいやがるパターンが多い。

 金属器なのだ。どちらも。

 鍛冶――すなわちモノづくりのイメージが、ここには見受けられる。
 鬼婆に至っては、包丁を使うどころか、夜中にこっそり研いでいるのがテンプレで、実に金属加工の職人っぽい。

 鬼というのは筋骨隆々の恐るべき怪物とイメージされるはずだが、その圧倒的パワーで人間を叩き潰さず、金属の武器を作り使うのはなぜだろう。
 その不必要な行為の理由を考えれば、鍛冶というルーツが重なるのは自然な道理だろう。

倒されるべき存在としての鬼

武士と鬼

 日本の歴史では、武家政権というものがある。
 貴族的な価値観の政治とは異なる、独特の文化だ。たとえば、刀を振るう彼らにとって、鍛冶の神たる八幡神は大切だった。このため八幡神社が爆発的に全国に広まり、今でも大量に残っている。
 そう、武家政権の時代には、戦こそが華となるのだ。

 これは鬼にも反映される。
 酒呑童子という鬼がいる。およそ歴史上最大級の知名度をもつ鬼と言っても過言ではない。
 こいつを倒したのは、源頼光。源氏が武家であることは言うまでもないだろう。
 また、京の町には茨木童子なる鬼も出没した。こいつをこらしめたのも源氏勢力のえらい武士だった。

 この「武士の功績としての鬼」にも百鬼夜行のイメージはみられ、こうした鬼どもは、集団のボスを務めていることが多い。単体で暴れまわる鬼というのは、そう多くはないのだ。

 倒されるべき存在。武士の誉れ。
 その偶像は、桃太郎に倒される鬼ヶ島の鬼たちにも繋がる。
 まぁ桃太郎のストーリー自体は別のところにもルーツがあるのだが、桃太郎という話が世に認知されはじめた室町時代は、これも武家政権だ。

 全体的に室町時代に鬼文化が大きく発展している気がする。
 鎌倉時代の狂人――おっと、蛮族――あ、いや、武士たちに比べれば、いくらか物語をワイワイ楽しむ文化的気質があったのかもしれない。

鬼はなぜ童子なのか

 ところで、鬼の名前に〇〇童子という連中が多いことにお気づきだろうか。
 先述の名のほかには、伊吹童子なんてのがいる。
 なぜ童子、つまり子供なのだろう。

 これはおそらく、和魂・荒魂の観念に帰着するのではないか、と言われる。
 読み方はなごみたま・あらみたまだ。
 穏やかで落ち着いた魂とは、すなわち年を経た老人の姿をとる。逆に、荒ぶる不安定な魂とは、子の姿をとる。
 という考え方がある。
 これを適用すれば、鬼が童子なのは用意に理解し得るものだろう。

(……とは語ってみましたが、実のところこの説はしっくりこない気持ちもあって、個人的には「よくわからん」というのが正直なところです。
 暴れん坊≒童子という図式が成立するのであれば、それが鬼に限定される必要はないと思うので。もっと一般的に怪物が子供の姿であってもよいような気がします)

鬼を倒す鬼

 ガゴゼという怪物がいる。
 元興寺というお寺の名が転じたもので、後世には化け物どもの総称になった。
 元興寺にいたという鬼は、とてつもない怪力をもつという童子によって討伐される。この童子、単に英雄的資質をもつ子供ということではなく、頭には蛇が巻きつき、頭と尾を後頭部に垂らした異様な風体だ。
 そもそもこの童子は、雷神が力を与えた赤子だった。
 ちなみにこの雷神も子供の姿をしているらしい。

 とにもかくにも、これは鬼が鬼を殺す話だ。
 先述の童子・子供≒鬼の図式を当てはめればよりわかりやすい。

 鬼を倒すおとぎ話は多いが、その主人公たちもまた、若き少年であることが多い。
 これは単なる少年漫画的なアレなのだろうか? それとも、鬼が鬼を殺すというモチーフが組み込まれているのだろうか。

 はっきりした正解はわからないが、こうした主人公たちの生まれ育ちがことごとく特殊であることを考えると、彼らがある種の鬼だった可能性はある。
 桃から生まれる赤子、熊と相撲を取る怪力の子、一寸の小さな体の剣士。これらを、単なる人間が怪物を倒す物語と見なすことには、いささかの疑問が残るだろう。

 鬼を倒す鬼の観念は、現代の少年漫画的価値観にも引き継がれているのではないか。と私は考えている。
 日本のエンタメ作品というのは、やたらと主人公を若く設定したがるが、これは別に日本人が幼稚だからではない……と思いたい。
 少年たちは、倒すべき鬼と同質の力を、正義のために振るうことができる存在なのだ。

まとめ

 鬼のことを話そうと思うときりがない。
 本の5冊や10冊くらいは軽く書けてしまう題材である。(私がそんな膨大な知識を持っているという意味ではない)

 漠然とした、日常の外側の存在たち。
 ひときわ強力な鬼によって束ねられる、無法の集団。
 鬼と戦う鬼。
 若き剣士。

 鬼滅の刃の鬼たちも、そうしたイメージの血脈を、しっかり受け継いでいるように思う。
 現代日本人が、この手の『人外かつ人間規模の敵』を物語中に設けようと思えば、自然とそうなるのだろう。

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