朝比奈のブルックナーを聴いて思い出すもの
『音楽の友』のブルックナー座談会で、朝比奈隆の名前がまったく出てこなかったことが一部クラオタの間で話題になった。
朝比奈を生で聴いたことのない世代の参加者ばかりだったのも一因だろう。
もっとも、遺された録音だけで審査するなら、朝比奈はチェリビダッケやヴァントに遥かに及ばないと見なされたのかもしれない。
今日たまたまアニメ「美味しんぼ」の「鮎のふるさと」という回を見た(傑作だった)。
山岡と雄山が京都の億万長者・京極さんに鮎の天ぷらを作って対決するのだが、味自体は五分五分と多くの参加者が感想を漏らす中、京極さんだけは雄山の天ぷらをボロボロ涙をこぼしながら食べていた。
雄山の用意した鮎は京極さんの故郷の四万十川の鮎だったのだ。
京極さんは鮎を食べて、純粋だった子供時代を思い出して号泣する。
クライマックスの雄山のセリフを引用しよう。
これを聞いて朝比奈のブルックナーも、ある一定の世代より上の日本人クラオタにとって、「懐かしい味」になっているのではないかと思った。
私は最晩年の3、4年の朝比奈の東京公演にはほぼすべて通いつめ、年末の大阪フェスティバルホールのベートーヴェン第九の公演二夜も3年連続で聴いている。
私にとって、朝比奈隆はブルックナーよりベートーヴェンが素晴らしかった。
ブルックナーもたくさん聴いたが、もとより好きな作曲家ではない。
それに比べてベートーヴェンの恰幅のよさ、力強い造型、分厚い響きは、まるでクレンペラーやコンヴィチュニーのような巨匠ぶりだった。
音楽を聴いて初めて号泣したのも彼の第九である。
細かいことにこだわらないおおらかな音楽性が、人間讃歌の奔流ともいうべき圧倒的なスケールで迫ってきた。
いまだに音楽体験でそれを超えるものがない。
小泉和裕/名古屋フィルの「エロイカ」だって相当素晴らしかった。
しかし、聴いたことすら忘れているときもある。
若い感受性が受けた鮮烈な感動は、早くも遠近両用メガネを使い出した40過ぎのおじさんにはもう得られないのかもしれない。
朝比奈はおそらく“B級グルメ”だったのだろう。
オムライスで例えるなら、最近主流のふわとろでデミグラスソースがかかっているようなものではなく、ペラペラの卵にケチャップライスの昔の洋食屋で出てくるようなオムライスだ。
オムライスの中身はチキンライスが好きだが、大学近くの銀皿で出す洋食屋はチキンではなくハムを使っていた。
朝比奈はまさにそんなオムライスの味。
朝比奈は55年間、大阪フィルを率いた。その「大フィルサウンド」は、今の大フィルからは失われてしまっただろう。
かつてのレニングラード・フィルやフィラデルフィア管弦楽団のような固有の音色を持ちえたオーケストラが日本にもあったことを、日本のクラオタは誇りに思ってよいのではないだろうか。
日本のクラオタは、おそらく耳が肥えた。暮らしも贅沢になった。
大フィルは朝比奈時代よりはるかに上手くなった。だが昔の大フィルには、B級の味があった。
朝比奈のブルックナーを聴いて、若かりし頃の貧しかった自分を懐かしく思い出す人は少なくないのではないだろうか。