転生したら大河の主人公だった件 追悼・竹山洋
脚本家の竹山洋さんが亡くなった。
竹山さんは大河ドラマの面白さを教えてくれた人だった。
1996年放送の「秀吉」は、今まで見た大河で一番印象に残っている(翌年の「毛利元就」がつまらなすぎたからなおさらだ笑)
「秀吉」は俳優陣も個性的だった。
汗臭くて走り回ってウザい竹中直人の秀吉、全身から孤独を滲ませながら「猿」にだけは飛びきりの笑顔を見せる渡哲也の織田信長、その信長に忠誠を尽くしながらも何をやっても裏目に出て疎まれる村上弘明の明智光秀、俗を超越している仲代達矢の千利休、おおらかな母の愛・市原悦子の大政所、いかにも「らしい」中尾彬の柴田勝家、俳優経験はほとんどないだろう大仁田厚の蜂須賀小六もよかった。
どう見ても34歳で夭折した人物には見えない古谷一行の竹中半兵衛などツッコミどころもあったが、俳優陣が生き生きと描かれていたのは竹山さんの人物描写が冴えていたからだろう。
近年では「西郷どん」(中園ミホ)と「青天を衝け」(大森美香)が傑作だった。
「麒麟がくる」は架空の人物が暗躍する(謎の医師マチャアキが時の天皇と碁を打ちながら天下情勢を語り合う場面など噴飯シーンが多発)壮大な歴史ファンタジーだったが、中園さんも大森さんも史実を丁寧に扱いながら自分の描きたい人間物語を作っていらしたように思う。
「鎌倉殿の13人」は苦手だった。同じ三谷幸喜の「真田丸」はまだ面白かったが、「鎌倉殿」の一番受けつけなかったのは台詞。
主演の小栗旬をはじめ、令和風な喋り方をする人物が多く、それで全部統一するなら演出の一つとしてわかるが、一方で時代劇風な喋り方をする役もいる。
言語が統一されておらず、小栗旬が時代がかった喋り方をしたら違和感があるから現代喋りにしただけなんだなと思った。
会話のやり取りも令和風なノリや笑いの感覚で、これは転生ものか?と思えてしまう。
令和の青年が鎌倉時代に転生した設定かと思ってしまった。
演出家の蜷川幸雄がシェイクスピアの「マクベス」を日本の戦国時代に置き換えて、ちょんまげ着物姿で演じさせたのを昔に観たが、コンセプトが明確ならまったく違和感はない。
「鎌倉殿」は衣装は通常の大河同様その時代の服装をしているのに、言葉や会話のノリが令和。何なんだ。
それでは時代劇ごっこに見える。言葉遣いも服装と同様、当時の風俗ではないか。
ちょんまげと着物を着てるのに足袋ではなくマイメロの靴下を履いてるような違和感がある。やるなら統一してくれ。
こんなことを感じるのも、YouTubeで昔の名作「独眼竜政宗」を見たりすると明らかに言葉の格調が違うからだ。
「独眼竜政宗」はジェームス三木の脚本。「葵 徳川三代」もジェームス三木だが、死を覚悟した江守徹の石田三成が喋る長台詞があまりにも美しくて感動し、書き起こして新聞に投書したこともある。
ただ、時代に合わせて若い人が見てもわかりやすい易しい言葉遣いに変えていかなくてはという制作者の思いもわかる。
しかし! いまの若い人はテレビを見ないのだから、大河にしても紅白にしても「若い人にも見てもらおう」という発想の立脚点がそもそも間違っているのだ。
面白いものを作ったところで、はなから家にテレビがない人も多い。
まずはテレビをよく見る層を満足させる内容にしてほしい。その層が面白がって世間で話題になれば、世代を問わず受け入れられるはずだ。
先日、歌舞伎座で仁左衛門の「霊験亀山鉾」を観た。
予習が甘かったので何を言ってるかわからないシーンも多く、大河の言葉遣いがいかに易しいかを痛感した。
大河や時代劇では、「この言葉ってその時代にあったの?」と疑問に感じることもよくある。
10年前の設定のドラマに「ぴえん」や「勝たん」が出てきたらおかしいように、言葉は時代を映す鏡である。
雑な使い方はやめてほしい。
言葉を大切に扱えばドラマの質は上がる。「鎌倉殿」がどれほど史実に則って作られていたかは知らないが、統一性のない台詞のやりとりを聞いているのは私にはつらかったので見なくなってしまった。
今年の「どうする家康」は「鎌倉殿」ほどくだけた言葉遣いには感じなかったが、やはり人物の会話感覚が現代風な印象がして、「逃げるは恥だが役に立つ」といった現代物のドラマとの違いをあまり感じない。
いっそ舞台を令和に置き換えた戦国ドラマをやるのもいいかもしれない。そうすれば台詞は現代喋りでいいわけだし、服装も現代仕様で済む。
ただ「読み替え」を行うには時代を違えても人物の本質が損なわれないという保証がないといけない。史実の掘り下げも必要だし、高等技術が求められる。
最近の「大河」が転生ものに見えてしかたないのは私だけだろうか。
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