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八百屋に乾電池を買いに行くクラオタ
さっき「クラシック音楽館」で、昨年のベルリン・フィルの来日公演を見ながらSNSを読んでいたら、
「(どこそこは)ヴァントみたいなテンポでやればいいのに」
といった投稿に出くわして、強烈な違和感を覚えてしまった。
即座に思ったのは、
「だったらヴァント聴いてればいいじゃん!😅」
ということだった。
ペトレンコが「ヴァントみたいなブラームス」をやることに何の意味があるのか。
ヴァントがすでにやってるなら、先人の模倣だよね。
しかしクラシックは再現芸術だから、「ヴァントみたいなブラームスを生でまた聴きたい!」というタイプのオタもいるのかもしれない。
だが、そこにペトレンコの存在価値はない。
ペトレンコはペトレンコの表現をして初めて、芸術家としての価値が生まれるのではないか。
黒澤明だったと思うが、
「りんごをわざと青く描いてるのに、『りんごが赤くないからダメだ』って貶す批評家がいる」
という発言を聞いたことがある。
さしずめ、八百屋に乾電池を買いに行くようなものだろう。
私はベートーヴェンの「運命」の好きな演奏としてノセダ/N響のライブ(YouTube)をよく挙げているが、生で聴いた岩城宏之/オーケストラ・アンサンブル金沢のスタイリッシュな「運命」も感動したし、朝比奈やチェリビダッケの“巨匠風”な「運命」も好き。
今日たまたまFMで聴いた出口大地/東京フィルの「運命」も岩城宏之に似た格調の高さを感じたし、以前にやはりFMで聴いた円光寺雅彦の「運命」も純喫茶のプリンみたいな懐かしい味わいが格別だった。
つまり、「運命」ひとつとってもさまざまなスタイルを愛好していて、「ここはフルトヴェングラーみたいにやってくれ!」と思うことはないのである。
私もコンサートの感想で他の音楽家の名前を出して比較したことはあったと思うが、例えばテンポ感とかそういった重要な要素について「誰それみたいにやってほしかった」って書いたことあったかな。
もちろん自分の理想とする演奏のテンポとか表現はあると思うんだよね。
だから「ここはもっと重々しく演奏すべきでは?」と書く分にはいいと思うんだけど、「ここはチェリビダッケみたいにもっと重々しく演奏すべきでは?」なんて書いてあったなら即座に「じゃあチェリ聴けよ!」って思っちゃうね😅
ペトレンコはペトレンコの表現欲求に従ってやってるんだから、何度も例えちゃうけどとんこつラーメンの店に行って「醤油がなかった!」って文句言ってる人みたい(たまにGoogleレビューで見かけるけどね😅)。
表現が拙いことを示すのに他の音楽家の解釈を引き合いに出すのならわかるけど、単に好みの問題を言われてもね……。
ふだん“言いたい芳題”の私だけに、「他のオタ見てわが振り直せ」を痛感した出来事でした😓
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