棋風
私の日曜朝の楽しみは、将棋フォーカスから将棋NHK杯、囲碁フォーカス、囲碁NHK杯の流れ。4時間だらだら見ていられる。
サバンナ高橋さんの軽妙なトークが炸裂する将棋フォーカスに比べて、囲碁フォーカスの地味さはお話にならないが、フォーカス・オン(特集)のセンスはなぜかいい。先日は棋士の記憶力チェックだった。
木部夏生三段、芝野虎丸名人、高尾紳路九段の三人でテスト。
過去に自分の打った碁を当てさせる長期記憶のテストで、木部三段はほぼ全滅。
反対に高尾九段は、30年前に打った相手も覚えていた。
これには理由があるのではないかと私は考えた。
高尾九段は「人間」と対局しているのだ。碁盤を挟んで、相手の囲碁観や人生観を感じ取っている。
「この手は井山さんらしい」「山下さんらしくない手だな」とか、普段感じながら打っているのだと思う。
反対に20代の木部さんは、人と打ってるというより、囲碁というゲーム、競技をしているだけなのではないか。
打ちながら相手をひしひし感じているのなら、誰と打ったか覚えていそうなものだが。
最近はネット碁やAIでの研究が増えた。そうなるとますます対局相手を感じなくなってしまうだろう。
それにAI布石が増えてきたから「○○さんらしさ」=つまり「棋風」がだんだんと薄れてきた。
クラシックの世界も同じである。「楽譜に忠実」を謳うあまり、似たような演奏が増えてきた。
昔の棋譜は、並べていれば誰だかわかるような人が多かったのではないか。
武宮正樹、趙治勲、小林光一、坂田栄男……。
いまの棋士の棋譜だけ見て、「あ!○○さんの碁」ってわかるだろうか。
独創的な布石の山下敬吾九段なら一発でわかるだろうが。
木部三段は碁盤の上だけを見ているのかもしれないが、高尾九段はおそらく一手一手から対局相手を感じ取っている。
囲碁は「手談」とも呼ばれる。石を置きながら相手と会話しているのだ。
おそらく対局中の高尾九段は、碁盤を挟んだ相手と山ほど会話を楽しんでいるのだろう。