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ブルックナーが好きな女はいない (短編小説)

 小清水健一が運命の女と出会ったのは大学二年のとき、場所は赤坂のサントリーホールだった。
 小清水は六歳でクラシックと出会った。音楽を聴く習慣のない教育熱心な母が習わせたいくつかの習い事の一つがヴァイオリンだった。
 技術習得のために研鑽を積むという地道な行為に向いていなかった小清水は三ヶ月で教室を辞めてしまったが、先生のおじさんは「ヴァイオリンは辞めても、クラシックは嫌いにならないでください」と彼の手を握りしめて言った。松脂臭い手だった。
 小清水がこの日サントリーホールに足を運んだのは、九十三歳のドイツの巨匠ヴァルター・ベンリッヒが手兵のドイツ・フィルハーモニー管弦楽団を率いて、おそらく最後と思われる来日を果たしたからだった。
 このありそうでなさそうな名前のオーケストラは、ベンリッヒが八十二歳のときに音楽監督に就任して世界的な名声を確立した。
 当日のプログラムはモーツァルトの交響曲第四十一番『ジュピター』とブルックナーの交響曲第九番。カラヤン、チェリビダッケと並び「最後の巨匠三羽烏」と呼ばれていたベンリッヒにふさわしいオール・ドイツ・プログラムである。
 指揮者の顔が見られるお気に入りのステージ裏の席で、小清水は入口でもらった薄っぺらいパンフレットをめくった。聞いたことのない音楽ライターがベンリッヒのプロフィールと曲目解説を書いている。
 一九〇八年生まれのヴァルター・ベンリッヒはドイツの片田舎の歌劇場のカペルマイスターとして、栄光と無縁の音楽人生を送ってきた。
 しかしあるとき、彼に人生の転機が訪れた。カラヤンのマネージャーが持病の胃潰瘍の静養のため帰省していた折り、彼の指揮する『フィガロの結婚』を聴いたのだ。
 終幕近くに突如響きわたった『ドン・ジョヴァンニ』の地獄落ちを思わせる不協和音がフィガロとスザンナの破局を予感させ、ハッピーエンドと誰もが信じていたこのオペラの悲劇性を浮き彫りにした。
 大きな衝撃を受けたマネージャーは心の中で叫んだ。「二十世紀の偉大な巨匠を田舎暮らしのまま死なせるところだった!」と。
 すぐさま、ベンリッヒを客演させてはどうかとカラヤンに進言した。無名の田舎者が自らの地位を脅かす可能性は皆無と判断した帝王はOKした。
 ベンリッヒがベルリン・フィルの指揮台に初めて立ったブルックナーの交響曲第五番は辛口の新聞コラムニストに「まるでブルックナー自身が指揮しているようだ」と絶賛された。
 以来、彼はドイツの主要オーケストラの定期演奏会に次々登場し、聴衆を魅了した。
 ところが、栄光の真っ只中で彼は突然姿を消した。巨匠の失踪劇は音楽界最大の謎として語り継がれ、香港の禅寺で修行したペーター・マークのようにどこかの宗教施設にいるのではないかというまことしやかな噂も飛び交った。
 しかしあるとき、フランスの日本料理店から酩酊して出てくるところを週刊誌に激写され、ブルックナーの権威のへべれけな姿は世界中のクラシックファンから祝福された。
 何のことはない、世界の美食を食べ尽くす長旅に出ていたのだった。志半ばで財産を使い果たした巨匠は翌日から楽壇に復帰した。
 運命の女は開演五分前のベルが鳴ったあと、息を切らして現れた。小清水の前列を通ると、左斜め前の席に腰を下ろした。
 大学生くらいに見えるが、若々しさはない。黒光りするストレートロングに止まっている煌びやかな蝶も似合っているとは言い難い。
 厚塗りのファンデーションとマスカラとは方向性を異にするオレンジの口紅が居心地悪そうに浮かんでいる。
 老舗百貨店のエレベーターガールを思わせるグレーのジャケットと黒のタイトなスカート。黒いハンドバッグにはたくさんのポケットがついていた。
 パラパラと疎らな拍手に迎えられて団員が全員着席すると、会場は静まりかえった。やがて背中を丸めたベンリッヒがゆっくりした足取りで現れると大きな拍手が起き、指揮台に上がり客席を振り返るや、コンサートが終わった直後のような万雷の拍手と化した。
 険しい皺が刻まれた丸顔のベンリッヒは哲学者のようにも見える。左手で白髪を掻き上げた彼は鋭い眼光でオーケストラを見回した。
 重苦しいしばしの静寂のあと、彼が指揮棒を振り下ろし『ジュピター』の第一主題が始まると小清水は首を傾げた。音に生彩が欠けていたからである。
「コンサートの出来は最初の一音でわかる」と高名な音楽評論家が言っていた通り、その違和感は最後まで拭えなかった。
 にもかかわらず、聴衆は大きな拍手を送った。こんなことをしているから日本の音楽文化はヨーロッパに遅れをとるのだと小清水が苦々しく思っていると、例の女も不満げな顔をして拍手をしていない。彼女の毅然とした態度は小清水の好意を呼び起こすのに十分だった。
 休憩に入ると女は席を立ち、休憩の終わりを告げるベルが鳴ってからまた姿を現した。
 後半のブルックナーは『ジュピター』とは別人が指揮しているのではないかと思うほど、緊密を極めた音が連綿と続いた。
 老巨匠最晩年の至芸がここにあった。死期が迫った芸術家にしか表現しえない何かがあった。
 聴く者の魂を浄化して天へと導いていくフィナーレで、老巨匠はついに指揮することを止めた。目尻にはうっすら涙が光っていた。
 巨匠の万感の思いを汲みながらオーケストラが奏でる中、十字架を握りしめるような仕草で彼は音楽を締めくくった。
 会場は静まり返った。我慢を切らした一人が拍手を始めたが、不謹慎と気づいたのかすぐに止め、再び静寂が訪れた。その後に、地鳴りのような拍手がステージに押し寄せた。
 満足そうに団員を眺めるベンリッヒ。小清水がハッと例の女に目をやると、彼女は片栗粉のようなマスカラをハンカチで拭っていた。
 ベンリッヒは何度も舞台に呼び戻された。団員が引き上げたあとも拍手は止まず、再度ステージに現れた。何か言いたげな様子を察して聴衆が拍手を止めると、
「日本ノ皆サン、来世デ会イマショウ」
 巨匠はたどたどしい日本語でお辞儀をした。聴衆はどっと沸き、感動的なコンサートを締めくくるにふさわしい万雷の拍手でベンリッヒを送ったのだった。
 帰り支度を始めた例の女を小清水がちらちら見ていると、彼女も彼に一瞬目をやった。目線が合った非礼を詫びるかのような女の会釈を好意の表れと勘違いした彼は
「素晴らしいブルックナーでしたね」
 と、微笑みかけた。
 女は当惑を隠せないまま「ええ、そうですね」と言って俯いた。
 これに気を良くした小清水は帰りのタイミングをずらそうとする彼女と一緒に出口まで歩きながら、コンサートの感想を熱く語った。その熱量に押されたのか、最初は迷惑がっていた彼女も相槌を返すようになった。
 会場を出ると、ホール前の広場にあるレストランが小清水の目に留まった。「後悔だけはしたくない」という人生哲学のもと、数々の本来しなくてもよかったことをしでかしてきた彼は飛び降り慣れた清水の舞台から今宵もいとも簡単に飛び降りた。
「よかったら何か食べていきませんか?」
「え?」
 ひたすら携帯をいじっていた女はあきらかに狼狽していた。
「ちょっとこれから--」
 と言い始めた女にかまわず、
「この本、知ってますか?」
 小清水は色落ちしたリュックから得意げに本を取り出した。
 ソフトカバーのその本は今年の春に新人賞をとって話題になった音楽ミステリー『ブルックナーが好きな女はいない』だった。
 女はパッと目を見開き、あっ、と声を出すと途端に不機嫌そうな顔になった。
「この本には迷惑してますよ。いくらブルックナーが好きな日本の女性人口が少ないからといって断言しちゃうのは許せませんね。事件の日に犯人がブラームスを聴いてたっていう結末も安易だし。アントンの会の面々も怒り心頭ですよ」
「アントンの会?」
「ええ、私が三年前に立ち上げたんです。青森の自営業の男性と京都のデザイナーの女性と私の三人でやってます。一応、私が世話人ってことで」
 女はブルックナーの話になると黙ってはいられない様子だった。
「どうですか? あちらのテラス席でブルックナー談義でも」
 小清水が笑顔を作ると、
「一介のファンの方とはお話が合わないと思うんです。でも、もし私が一番好きなブルックナー指揮者を当てられたらご一緒してもいいですよ」
 女は挑戦的な目で小清水を見た。
「せめて何かヒントがないと」
「いいでしょう。交響曲第六番を最後に録音して亡くなりました」
「難しいですね」
「ブルックナーの名前がつくオーケストラです」
「わかりました!」
「ヒントが易しすぎましたかね。では、どうぞ」
「クルト・アイヒホルン!」
「正解!」
 女はげらげら笑った。
「マニアックですね。渋めの指揮者がお好きなんですね」
「チェリビダッケやヴァントを散々聴いたあとに行きつくのがアイヒホルンなんです」
 アントンの会世話人としての自負を感じさせる口ぶりの女を前にして、実はアイヒホルンを一度も聴いたことがないと小清水は言い出せなかった。
 約束通り、二人はレストランのテラス席で簡単な食事をした。大学三年だという女はハイネケンをうまそうに三杯飲んだ。
 お酒に弱い小清水はプレミアムモルツを一杯飲んだだけだった。女はフライドポテトに何度もケチャップを擦りつけてはうまそうに平らげていた。
「ブルックナーって版がいろいろあるじゃないですか。ノヴァーク版とかハース版とか。僕は違いがよくわからなくて」
 小清水が卑屈そうな顔をすると、
「いいんです。殿方はそれくらいの方が。失礼ですが、珈琲はお好きですか」
 女が訊いた。
「どちらかと言うと紅茶党です」
「ブルックナーの版って珈琲豆の種類みたいなものです。モカとキリマンジャロの違いと同じです。珈琲好きな人には大きな違いですが、そうでない人にはわからない」
「僕は違いのわからない男みたいで」
 小清水が自虐すると、
「違いのわからない男の方が御しやすくて私は好きですね」
 女は四杯目のハイネケンを飲み干した。
 女性を心地よくさせる会話術など知るはずもない小清水だったが、クラシックの知識だけは豊富だったので、好きな演奏家の話題で二人は盛り上がった。
「よろしければ連絡先の交換をしませんか? 自己紹介が遅れました。小清水健一と申します」
「はあ」
 女はぼんやりと言った。
「お名前は何ておっしゃるんですか?」
 小清水が尋ねた瞬間、女の顔色が変わった。鈍感な彼はそれに気づくことなく、顔いっぱいに微笑みを湛えて女の返答を待った。
 女はため息をついて言った。
「水田です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。下のお名前は?」
 モテない男特有のしつこさで食い下がる小清水の前に女は無力だった。女はまな板の鯉である自分を自覚した。
「真理です」
 ふてくされた態度で女は言った。
「水田、まりさんですか。あっ」
 今まさにフェルマーの最終定理を証明したかのような喜びに満ちた顔で小清水が女を見た瞬間、鋭い眼光を浴び、浮ついた気持ちは一気に冷め、己の自堕落な生活を省みることすら強いられた。
 彼は恥じた。世の中には気づいても言うべきではないことが多々あるという多くの人にとって自明のことを学んだ瞬間だった。
「じゃ、そろそろお会計しましょうか」
 連絡先を交換するなり、女は伝票に手を伸ばした。
 駅まで無言で歩いたのち「それじゃ」と手を振った小清水に、女は無言で一礼して去っていった。

 水田真理とはその後、数回デートした。小清水は決して気の利く男ではなかったし服装もおしゃれではなかったが、せっかく出会った運命の女に恥をかかせまいと一年前にファストファッションで買った服で精一杯コーディネートして出かけた。真理は色落ちしたジーンズに「love & peace」と書かれたピンクのTシャツを着ていた。
「僕はあんまり服とか持ってなくて」
 小清水が謙遜のつもりで言うと、
「気にしないでいいですよ。私、ダサい服の人の方が好きなんで」
 真理は緑と白のチェックのシャツを一瞥して言った。喜んでいいのかわからなかったが、彼女の笑顔に小清水はひとまず安心した。
 レストランやカフェデートの次に、小清水は彼女を映画に誘った。「王様のブランチ」でデートにぴったりと紹介されていた、旬の若手俳優が共演する邦画のラブストーリーだった。
 クライマックスで感極まった小清水が隣の真理を見ると大きなあくびを噛み殺していたので己の浅はかさを思い知らされた。
 上映後に「どうでした?」と訊いた小清水に、「素敵なラブストーリーでしたね」と真理は目尻に残った涙を拭って言った。
 感動の涙ではなく、あくびの涙とバレてるとは知らずに。ともあれ最低限の礼儀は弁えた女だとわかり、小清水は安心した。
「今度何か見たい映画ありますか?」
 小清水が水を向けると、
「そうねぇ」
 真理はしばらく考え込み、渋谷のミニシアターで上映中のチェコの独立を描いたドキュメンタリーの名を挙げた。小清水は自分の安易なチョイスがいかに彼女を傷つけたかを思い知った。
 デートは順調に回を重ね、このままいけば念願の童貞喪失も訪れるかもと小清水は期待した。真理は決してモテるタイプには見えなかったが、処女とも思えなかった。ブルックナーに一家言あるこの女をどんな男が抱いたのだろう。
 まさかセックスのBGMまでブルックナーではあるまい。いや、カラヤンがウィーン・フィルを指揮した第七番のアダージョなら使えるかも、などといらぬ妄想をした。
 しかし、破局は突然訪れた。次のデートを水曜に控えた日曜の夜九時、足の爪を切っていたら真理から電話があった。自分からめったにかけてこない女だったので、小清水は驚くとともに嫌な予感がした。
「ねぇ、今日何してた?」
 小清水はその問いがまさか二人の終焉を導くとは夢想だにしなかった。人生はいたるところに落とし穴があるものだ。
「今日は家の片づけとかしてたかな。あ、ブルックナーの『ロマンティック』聴いたりもね」
 小清水の寒いジョークに真理は乗ってこず、
「それだけ?」
と、続けざまに訊いた。
「そうだね」
「あなた、今日何の日か知ってる?」
 そう訊かれて、頭が真っ白になった。はて、真理の誕生日でないのは確かだ。真理の両親の誕生日だったか。いや、父は六月で母は三月だったはずだ。では何だろう。あ、二人が出会った日から数えてちょうど二ヶ月か。
 小清水がほっとして口を開きかけると、
「今日は国政選挙の日じゃない。衆議院の。もちろん期日前投票にも行ってないわよね?」
真理が刺々しい口調で言った。
「ほら、今って与党もひどいけど、野党も頼りないし、応援したい党ないからさ」
 小清水がへらへら笑うと、
「どこかで聞いたような子供じみたこと言って。投票に行かない人たちが日本の政治を腐敗させてるってわからないのかしら。政治に対する無関心は社会に対する無関心。学生であっても社会の一員って意識ではいてほしいわ。趣味の話はできても世間の話ができない人とは話が合わないわ」
 真理はため息をついた。
「今までいろいろありがとう。正直楽しくなかったことの方が多かったけど、楽しかったこともわずかにあった。あなたは私の人生において間違いなく通過点だった。記憶に残らないとは思うけど、悪い記憶として残るくらいならその方がよっぽどありがたいわ。私の一番好きなブルックナー指揮者を当てられたのはあなただけよ。元カレは当てられなかった。というか、クラシック全然聴かない人だったの。K―POPしか聴かない人で、歌詞なんか読んだこともないって人だった。でも、いいの。セックスの相性はバッチリだったから」
 真理の長広舌を小清水は唖然として聞いていた。
「話すのはこれで最後だと思うけど、何か言っておきたいことあるかしら」
 真理の突き放した物言いに小清水は動転した。
「実はアイヒホルン聴いたことないんだ」
「わかってたわ。あなたはヴァントって顔してるもの。今の発言は交響曲第九番の後にテ・デウムを演奏するくらい余計だったわね。それじゃ。Auf Wiedersehen.」
 真理はそう言うと、電話を切った。

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